江戸長屋の門松飾り
東京銀座では、毎年年末になると、救世軍の歳末運動の「社会鍋」が登場します。
その場を通り過ぎると、いよいよ年の暮れだなあという実感が湧いてきます。
これは、救世軍が街角に青竹の三脚を立てて鍋をつるし、行人の喜捨を乞うものです。
集まった資金で貧しい人々に施したり、施療事業に投じたりするものです。
クリスマスが終われば、今度は門松が各商店の前に並びますね。
あっという間に街がお色直しをします。
門松は、門口に飾る歳神様(としがみさま)の依り代です。竹と松の木に注連縄をつけた立派な門松もありますが、松の枝を門口の両脇に取り付けるのが一般的です。
門松は「松の内」の1月7日まで飾るのが一般的ですね。
江戸の門松はどんなだったのでしょうか。
歳神様(としがみさま)は福の神。お正月だけ降臨する神様で、各家では、是非うちにもおいでくださいという願いを込めて、門口に門松を立てて、それを目印に神様においでいただく、神様は門松で一休みされるということです。
江戸の門松は、松ではなく、笹が主体でした。
伸びっぱなしの笹を束にし、ぐるぐる巻きにしてその周りにぐるっと松を巻いたということです。
長屋の木戸口や通りの真ん中に立てて、各家から眺められるようにしたそうです。
というのも、長屋全戸を一家族として共同で作り、どの家からも見ることができるようにしたのです。
笹は背が高く、普通は平屋の長屋なのですが、屋根裏があるという二階建ての長屋だと、二階障子をサラサラとなでて、そのサラサラという音を聞くと、ああ、お正月がきたんだなあと、みんなが感慨深い気持ちになったそうです。
江戸の長屋の門松って、こんな感じだったのですね。
次回はおせち料理のお話をしますね。
「断・捨・離」から「捨徳」を考える
先日書きました「断・捨・離」について、ある方が「捨徳」ということをおっしゃっていました。これはどんな意味なのでしょうか。これを考えてみましょう。
「断・捨・離」を心の側面から見ると、「捨」と「離」の心が、仏教でいう「四無量(しむりょうしん)」の中の「捨無量心」にあたるのですね。
「四無量心(しむりょうしん)」は、仏教の言葉で仏が一切の衆生に対して持っている無限の愛の心のことです。人間が目指すべき心のあり方ですね。
慈悲の心をあらわす「慈無量心」、相手の悲しみを取り除いてあげたいという「悲無量心」、喜びを与える心をあらわす「喜無量心」、相手に対する穏やかで動揺しない心をあらわす「捨無量心」。
この「慈・悲・喜・捨」の四文字の意味を見ていきます。
「慈」と「悲」は、合わせて「慈悲」と呼ばれ、苦しんでいる人を見たら、その人の苦しみを除いてあげたいと思う心、「慈」は「抜苦」(ばっく)ということです。
そして、「悲」は「与楽」(よらく)、すなわち悲しんでいる人に楽しみを与えてあげたいと思う心のことです。
「喜」は自分の喜びではなく、他の人が喜んでいるのを見て、自分の喜びとするということであり、
「捨」は執着を捨てるということです。
では、「捨徳」とはどのような意味なのでしょうか。
相手を愛すればこそ、それに執着してはいけない、思いを解き放つということです。
例えば、子どもに対しては、溺愛しないで、時には突き放す、それはその子を真の人に育てようという智恵に基づく愛です。
また、夫が浮気をしたときに、夫をどのように見るのか、相手の女性をどのように見るのか、憎しみと怒りと拒絶を持って自分の心の中に迎え入れるのか、その思いを解き放ち、愛する者に対するのと同じように憎む者に対しても同じような心で接するのか。
この部分だけを見ればとても難しいことですね。なぜそこに至ったのかを考える必要もあろうかと思います。
愛憎の別を捨てて「空平等」の悟りを得ること。これが「捨徳」のようですね。
自他一体の心を体得していくことは、もちろんなかなか難しいことです。
この神の無限なる愛の心、自他一体の心を人々が持つように心掛けていくと、自分と他者、自国と他民族、人類と動植物などの境界を越えて、「みな尊い命をもつもの」という考え方と「みな生かされているのだ」という思いになれるのだと思います。
イエス・キリストも述べていることは同じことなのですね。
「目には目を」「隣り人を愛し、敵を憎め」という言葉、行為をいさめています。
(『マタイによる福音書』第5章)
だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
天の父は、悪い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨も降らせてくれる。
天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人になりなさい。
門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。
言うはやすしですが、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と、生きている間、日々日常の中での学びを体験し体得していきたいと、そう願っています。
断・捨・離〜2013年の終わりに
2013年もあっという間に師走を迎え、
信じられないぐ
あともう少し、今年も一日一日を大切に過ごしたいですね。
そこで、一緒に断捨離(だんしゃり)を行いませんか。
断捨離とは、部屋の整理整頓と共に、ものへの執着から解
身軽で快適な人生を手に入れようという考え方に
それと一緒に、心の断捨離も行いたいものです。
潜在意識の中にある不用品、
例えばネガティブな感情など
自分の人生をスムーズに、よりよい生き
捨てれば、得るものも大きいから
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無意識に流れている感情を意識的にながめ、
決して抑圧し
ありのまま認めてあげて、
その
例えば、これが「ああ、自分を認めてほしかったのだ」と
「認められなくても、私は私のま
.
.
自分の感情に罪悪感を持ったりせず、認めてあげる、そし
それだけで、心の断捨離はしやすくなります。
決して罪悪感を持ってはいけないのです。
その感情の出どころを理解することです。
その感情をまた自分の奥に再び押し込めないで、認めてあげる。
無理にそれがどうして沸き上がってくる感情なのか、
突き止めようとしたり、その問題を抱えていることに密かに誇りを持ったりしていると、
同じような問題をまた引き起こしたりしていまいます。
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要は、淡々とその感情を感じている自分を客観的に見て、
あれこれ深く考えずに手放してしまうことが望ましいのです。
慌てることもありません。
カチンと自分にスイッチが入るときを待つことも必要です。
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今年もあとわずかですね。
ちょっと立ち止まって、心も身辺も整理してみませんか。
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「古事記」されど「古事記」
現存する日本最古の歴史書とされる「古事記」。
今多くの書籍も出ていてブームになっていますね。
奈良時代の和同5年(712年)に成立、伝承では稗田阿礼(ひえだのあれい)が暗習(しょうしゅう)したものを太安万侶(おおのやすまろ)が文章化したとされています。
天武天皇の勅令で稗田阿礼が暗習させていた帝紀や旧辞を、天武天皇の死後、元明天皇の命を受けて太安万侶が選録し、712年に献進しました。
日本最古の歴史書とされ、天皇統治の由来と王権による国家発展の歴史を説いています。
上巻では神代、中巻では神武天皇から応神天皇まで、下巻では仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
上巻(かみつのまき)では、天地開闢以来の日本列島の形成と国土の整備が語られています。神々の天孫降臨を経て、神武天皇の誕生までを描いています。
たくさんの神様が登場してくるので、その名前を見ただけでも混乱してしまい、それが「古事記」を敬遠したくなる原因でもありますよね。
神話と言われる「古事記」されど「古事記」。日本最古の歴史書。
やっぱり知っておいたほうがよさそうですね〜。
この際、一緒に学んでいきましょう。
伊勢神宮でお祀りされている天照大神が登場するのは、実はずっと後のことです。
天地開闢の際に最初に現れたのは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。
この天之御中主神が、「古事記」に最初に登場する神様で、宇宙を司る神とされています。古事記での登場は最初の一度きり。
近世以降の民間信仰では、北極星を信仰する妙見菩薩と同一視されて、「妙見さん」として信仰されたそうです。
天地(あめつち)が初めて地球に現れたとき、高天原の降り立ったのは、
この天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、そしてあと二柱、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすび)でした。
大地はまだ若く、水に浮く脂のようで、くらげにように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした。
その後、葦の芽のように伸びてきたものの中から、また二柱の神様が現れます。宇摩志阿斯詞備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)です。
これらの五神を神五柱(いつはしら)と呼びます。
さらに、天地が現れて早い時期に成った特別な神様たちということで、別天神(ことあまつかみ)といわれます。
見ているだけでも、息が切れそうですね。
イザナギ、イザナミが登場するのは次の代になります。
(続く)
無病息災の柚子湯
明日は冬至ですね。
昼がもっとも短く、夜がもっとも長い日です。
太陽の力が弱まると考えられたこの日は、生命の終わる日ともいわれ、
厄祓いの祈願もされてきました。
夏に収穫し保存していた栄養価の高い南瓜を食べたり、ゆず湯に入り、
その香りで邪気を祓ったりしましてきました。
ゆず湯は、体が温まり、しもやけにならないとか、
「無病息災」の効用があるとされてきました。
戦前の東京では、冬至の日に市中のどの銭湯にも入口に「柚子湯」と、
張り紙がされていたそうです。
日本のお風呂の年中行事に5月5日の菖蒲湯と12月の柚子湯があります。
家庭のお風呂でも大事にしたい行事ですね。
柚子は、みかん科の常緑樹です。
夏には白い花が咲き、冬には実が黄色く色づきます。
酸っぱすぎてみかんやオレンジのように生食はできませんが、
皮はよき芳香がありますから、鍋物にもよく合いますね。
「無病息災」のもう一つの風習。
南瓜と小豆を一緒に煮た「冬至南瓜」を食べることです。
小豆の赤い色が厄よけになるということから、食べられるようになったそうです。
小豆は滋養強壮にもとてもよいとされています。
お正月に赤い小豆をいただくのも、厄を祓い、新年をことほぐという意味もきっとあるのですね。
冬至が過ぎれば、次第に昼が長くなっていきますね。
静かに初春を迎える準備をしていくことになります。
暖かくして、この週末もお過ごしくださいね。
風呂吹きの煮上がる親星子星出て〜化石〜
皆様、おはようございます。
風呂吹きの煮上る親星子星出て 村越化石
大根を分厚く切って昆布だしで柔らかく煮て、胡麻味噌などをかけて食べる「風呂吹き大根」。
今夜はいかがですか。
カブや冬瓜にも応用できますよね。
大根は面取りして、厚切りにして、ふっくらと茹で上げ、
大根そのものの味を味わうのが一番の調理法です。
ふう〜っ、ふう〜っっと、吹きながら食べるのは、この寒い冬、格別ですね。
「風呂吹き」という名前は、漆器を乾燥させるときに大根の茹で汁を風呂(乾燥室のこと)に
吹き付け、残りの大根を利用したことに始まるそうです。
この俳人村越化石は、静岡県藤枝市出身。
「魂の俳人」と言われている人です。
ハンセン病になり、後に昭和24年大野林火に師事し、
今では俳句界のあらゆる賞を受賞しているということです。
こちらもどうぞご覧くださいね。
http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse_manabu_bungaku_kaseki.html
師の大野林火が化石に次のような励ましの言葉を与えました。
「見えないから何もできないと思ったら、生きている価値がない。
昔は見えたんだから、そんなことは苦にしないで、心の俳句を作りなさい。」
第二句集「山国抄」(昭和49年)より。
雁渡し山脈力集め合ふ
昭和57年、第三句集「端座」で蛇笏賞を受賞(昭和57年)
郭公に膝向けいのちはるばるす
落ち葉踏み天を鏡と思ひけり
師の大野林火は亡くなる前年まで、
化石のいる栗生楽泉園まで足を運んで化石を励まし続けました。
そこは長野県草津のそばです。
「はじめから甘えた句はだめだ。
自分をたえず見つめて、俳句の中心には自分というものがはっきりなくてはならない。
誰の句でもない自分の句を作りなさい。」
平成12年、故郷に句碑が建てられたので、村越化石は60年ぶりに帰省しました。
望郷の目覚む八十八夜かな
師林火の言葉は、健常者の私ですらとっても励まされます。
私の郷里のそばには、ハンセン病患者の療養施設があります。
いつからあったのかは分かりませんが、昔からあり今もあります。
前小泉首相の時代に国がハンセン病患者の補償を認めたことは、
私にとっても大きな喜びでした・・・。
浅草の「羽子板市」
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江戸情緒ある歌舞伎の絵柄に加えて、話題の社会風刺、時事や人気タレントなどを題材にした変わり種羽子板など多彩な作品が販売されます。
私の英語版ホームページのトップページに載せている羽子板もこの浅草の「羽子板市」で買ったものです。
当時、3000円で購入しました。
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日舞の舞台前の総ざらいのお稽古の帰り、もう市が閉まる寸前でしたので、安くしていただきました。「藤娘」の羽子板です。日本舞踊を代表する演目の一つですね。
思い出の羽子板になりました。
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新島八重の「寂中庵」への思い
皆様、おはようございます。
いろいろ励ましのお言葉をいただきまして、ありがとうございました。
やっと元気を取り戻してきました。
「夢は枯れ野を駆け巡る」の心境でここ4、5日過ごしていました。
あれもしたい、これもしたいと思うだけで、体が思うように動きませんでした。
病気になると、いつまでこれが続くのか先行きが見えない不透明さとともに、健康でいたときに体を乱暴に扱っていたことへの申し訳なさ、頑張ってくれていたことへの感謝の思いが交錯してくるものですね。
身体は大切にしないといけませんね。
皆様も、どうぞお気を付けてお過ごしくださいね。
NHK大河ドラマ『八重の桜』が最終回を迎えましたね。
時代は欧米列強と肩を並べる富国強兵の時代、大国との戦争の時代へと突入していきました。
そして、兄覚馬、前会津藩主松平容保、そして、夫新島襄を、実母をと、次々と亡くしていきます。
「みいんな、いなぐなって、しまったあ・・」と、涙で語る八重。
だれにでも必ずやってくる身近な人たちとの別れ。
夫襄の死後、心を潤したのは茶の湯だったのですね。
そこには、心の安寧を得ることができる世界があったのだと思います。
同志社の理事大澤善助から、娘に茶道を教えてほしいと頼まれたことがきっかけで、自宅の一室を改造して茶室を作りました。
裏千家第13代の千宗室(円能斎)が、「和敬清寂」という茶の湯の真髄の四文字から「寂」という字をとって、そこは「寂中庵」と命名されました。
「和」とは、とらわれの心から開放され、和らいで混じり合うこと。
「敬」とは、敬い尊敬すること。
「清」とは、あらゆる対立を超越した清らかな心。
「寂」とは、「空」や「無」の境涯のこと。あらゆる対立を超越してこそ得られる不動の心と言えるでしょう。
主客相互が職業や地位、貴賤などを超えて、尊敬し、認め合うこと。
赤十字の看護婦として先頭に立って陣頭指揮した八重にとって、命とは敵も味方もない、尊い存在そのものであったのです。
日本が国意を高揚させながら戦いに向っていく様は、見ていてさぞ辛かっただろうと思います。
明治維新に伴う大名家の廃止などによって茶道は廃れていったようですが、八重が茶室「寂中庵」を開いて、女性に茶道を教え始めたため、裏千家は女性の間に広まっていったそうです。
女性の品格や知性、教養を磨くことこそ大切であり、それが社会を、世界を変えていくと、考えていたのでしょう。私も共感できます。
1890年(明治23年)には茶名「新島宗竹」を許され、女性では最高位にあたる裏千家の師範にまで上り詰めました。
「会津のおなご」の誇りを生涯持ち続け、最後まで「わだすは、あきらめねえ」の精神で生き抜いた女性の生き様は、学ぶべきところがたくさんあります。
時代も生き方も全く異なる現代ですが、
私たちも人生の最期まで、あきらめないで夢を追い続け、生きていきたい、そう願っています。
おもてなしのこころの基本は、相手に対する思いやり
おもてなしのこころの基本は、やはり相手に対する思いやりですね。
もしお客様からクレームがきた場合には、どのように対処していますか。
かなり相手が興奮している場合には、ことらも冷静に対処することはなかなか大変ですよね。
まずは、相手の心情を理解すること。
そのためにはよく相手の話を聞くこと。そして、その事実に対してお詫びをすること。
相手の話に共感することは、相手に安心感を与えますね。
どんな状況だったかを聞いているうちに、相手の勘違いだったということもあります。
そして、こちらからの対応の提示をする。
最後にまたお詫びをする。
その間、相手の怒りが少しずつおさまっていけばいいですね。
クレームやトラブルというのは、むしろ問題点を把握するチャンスだともいわれています。
☆☆☆ところで、「江戸しぐさ」について思うところがありまして・・。
「江戸しぐさ」のコラムを楽しみにして見てくださった方、いいね やシェアをしてくださった方へ。
ほんの少し、心のうちを打ち明けます。
現在人が人付き合いの中で忘れかけていた思いやマナーを、
「江戸しぐさ」を通して広めたい、
分かりやすく学んでいただけるものと考え、動画を作り始めたのです。
そんな矢先、
すぐにこんなメッセージが舞い込んできました。
「江戸しぐさ」とは、NPO法人「江戸しぐさ」が商標登録したもの。
許可なく講座等で使用する場合には使用料が発生する。
著作権にも触れるので、即刻やめてください。
それ以前から代表の江戸しぐさの語り部越川禮子さんに対して、親しい知人から連絡をとってもらっていましたが、待てど暮らせど応答がありませんでした。
思いあぐね、悩んだ末、「江戸しぐさ」と関わっていくことを断念しました。
でも、江戸は魅力的なところです。
ふんだんに得るところがありますね。
それ以降は違った視点から江戸を眺めていこうと決意しました。
私のコラムに興味を持って読んでくださっていた方の層は多少変わり、減っていきました。
でも、それは仕方ありませんでした。
現在私のコラムをお読みくださっている方のために、今は書いていますし、これからもそうしていきます。
何かしら江戸の良さ、現代に必要なものを感じていただければ幸いです。
めげずにやっていきますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
顔はあなたの心のバロメーター
こんな素敵な詩を見つけました。
「顔はあなたの心のバロメーター」
あなたが怒ったとき、鏡を見てごらんなさい。
どんな顔をしていますか。
あなたが幸せなとき、鏡を見てごらんなさい。
どんな顔をしているでしょう。
この肉体はまことに順応しやすいものなのです。
あなたが心でどのようなリズムを奏でるかによって、
あなたの肉体は即、そのような表現をするのです。
そのリズムが習性となれば、それがあなたの性格となるのです。
性格は習慣性によってつくられたものなのです。
ですから、顔はあなたの心のバロメーター
〜永安 治〜
いつでもほほえみや笑顔で過ごしたいですね。
性格も自分でつくるものだなんて・・。
おもてなしのこころの基本にあるものは、やはり自らの心のあり方ですね。