和のたしな美ぶろぐ
Nov 28, 2013

野菜は、四里四方(よりしほう)から

百万の人口を抱えていた都市江戸。

彼らの胃袋を満たすための食料もちゃんと確保できていました。

 

今の感覚だと、都市と農村というのは分断されて存在しているように思われがちですが、
江戸の町は農村が入り込んでいるような状態で、半分が農地だったそうです。
また、武家地は半分が庭園でしたから、モザイク状に緑があったのですね。
今も残っている新宿御苑も六義園も元々は大名屋敷の庭園でした。
積極的に緑を取り入れていた都市だったと言えます。

 

 

今はいろんな野菜を遠方から取り寄せて売っていますが、江戸では「野菜は四里四方(よりしほう)」といって、だいたい四里(約16Km)以内のところから葉物などの野菜が供給されていたのです。

 

冷蔵庫がない時代ですが、いつも新鮮で無農薬の野菜が入ってきて、とれたてのものを食べたり、煮物や漬け物にしたりしていました。しかも、すべて無添加です。

 

知れば知るほど、無駄のない、合理的な暮らしをしていたことが分かります。

紙、衣類、野菜や果物から家屋まで、すべて自然素材。木材以外のものはすべて太陽エネルギーから作られるものばかりです。最後は土に戻っていくだけです。

 

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生ゴミが出ても、周りが農地ですから、帰りの船や馬にのせて持って帰って、堆肥にしてしまうので、これも無駄がない。

 

下肥(しもごえ)も江戸周辺の農村で全部肥料にしてくれていたのです。

この近郊の農家のほうが肥料の生産のおかげで裕福に暮らしていたともいいます。

 

武士の給料もほとんどベースアップなし。

江戸城の工事で働く大工の賃金も、2倍になるのに200年かかるほどだったそうですから、ほとんど賃金も生涯変わらなかったのですね。

 

現代人は右肩上がりに生きていかなければならないと、どこかで思い込んでいるものですが、そうしなくても暮らすことができたのです。

 

ですから、みんなシンプルに生きていたのです。

 

現代のように、ゴミの処理をどうするかなんて、悩まなくてもうまく循環していました。

 

太陽エネルギーの恩恵だけで自給自足で生きた、そんな時代があったのですね。

 

まさに、お天道様のおかげで生きていた都市です。

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Nov 27, 2013

お天道さまが見ていなさる

ー江戸の街は日の出とともに動き出す。

 

江戸の人々の一日は、朝、東から昇ってくる太陽に手を合わせることから始まり、夕方、西へ沈む太陽に手を合わせて終わります。

 

「お天道様が見ている」

「お天道様に嘘はつけねえ」

 

日の出とともに起きて、精一杯一日の活動をしたら、明日の備えて「明日備」を楽しみ、日没とともに寝る、それが江戸の人々の普通の暮らしのリズムだったようです。

 

 

田畑の実りも山海の珍味も四季折々の暮らしも「お天道様」のおかげだと思っていました。
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日本人は古来より、太陽、山海草木、天候など、森羅万象には神様が宿っていると考えて、人間の力の及ばない偉大な力に対し畏敬の念を持ってきましたから、
太陽を「お天道様」として崇める心も、自然なことだったのでしょう。

 

 

太陽に尊敬と感謝を込めて、「お天道様に見られて恥ずかしいことをしてはいけない」と、

自分を律し、戒める、そんな生き方を自然にやってきたのですね。

 

小さい頃、おばあちゃんから、「ほら、お天道様が見てるよ。悪いことをしちゃいけないよ。」と、そんなことを言われませんでしたか。

 

さあ、太陽に向かって、「陽に生きる」でいきましょう。

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Nov 27, 2013

はたらくは、傍(はた)を楽にすること

江戸っ子は、「朝飯前」に軽いフットワークで向こう三軒両隣に声をかけて、困った人がいないか様子を見て回って、

 

朝ご飯の後は、身過ぎ世過ぎ(生活)のための働き、お金を稼ぎました。

 

昼食が済んだ午後からは、人のため、町のための「はた(傍)を楽にする働き」、ボランティア活動に精を出しました。

 

夕方は、明日も元気に働くため「明日備」、あそび、リフレッシュをして楽しんだのです。

 

 

ボランティアばっかりで、どうやって稼いでいるのと思いますね。

 

杉浦日向子さんに言わせれば、

「江戸っ子の基本は三無い。持たない、出世しない、悩まない。」だそうです。

肩の力が抜けた生き方ですね。

温もりのある人付き合いに精を出していたことが分かります。
「はたらく(傍楽)」は、周囲(傍)の人を楽にする、楽しくするという意味があると言われています。

 

その反対語は、周囲(傍・はた)に不快な思いをさせる、迷惑をかける意味の「はた迷惑」だそうです。

 

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西洋的な「働く」という発想から見ると、
「働く(Work)」の反対語は「遊ぶ(Play)」ということだといいます。

もともと労働階級が資産家に時間を拘束されて「働く」という考え方からきているものなのですね。

 

日本と西洋との「働く」ことの意味合い、こんなにも違うことに気づかされます。

日本の「働く」には、奉仕するという意味合いが含まれていて、苦しいもの、拘束されるという概念はなかったのです。

 

 

さあ、肩の力を抜いていきましょう。

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Nov 27, 2013

「朝飯前」という言葉

朝温かい布団の中から出たくない、そんな気候になりましたね。

 

「そんなことは朝飯前だ」とよく言いますが、

意外に自分では使わない言葉のようにも思います。

 

「そんなことは朝飯前だ」は、それは人に何かを頼まれても、素早く対応できる、

簡単にできることですね。

 

江戸庶民の間では、朝ご飯の前のボランティア活動を「朝飯前」と言ったようです。

 

朝起きたら顔を洗い、身だしなみを整えて、神仏に感謝して外へ出る。

向こう三軒両隣りの道路を掃いたり、水を撒いたりしました。

 

 

毎日こんなことをやっていると、ご近所の様子がよく分かるのです。

まさかの時、些細なことが起こった時に、軽い足取りで素早く対処しました。

 

 

病気の人や一人暮らしのお年寄りに声をかけたり、家の修理を手伝ったり、ぼやが発生していたらすぐに火消しをしたり、手間をいとわずに素早く処理するのが江戸っ子の本領だったのです。

 

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今は住環境も人付き合いもすっかり変わってしまいましたが、

 

現代版「朝飯前」のボランティア活動、どんなものがあるでしょうか。

 

例えば、早朝、花への水やりや落ち葉の掃除なども、ちょっとご近所の分もやってみるとか、家の中の掃除をやってみるとか、心もスキッとしてきそうです。

 

「こんなの簡単、朝飯前さ」と軽やかに言えるようになりたいですね。

江戸っ子のフットワークの軽さ、見習いたいです。

 

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Nov 23, 2013

はかなくも強き女流作家 樋口一葉

今日は勤労感謝の日ですが、樋口一葉忌でもあります。

明治の女流作家、五千円札でおなじみですね。

享年25歳(明治29年)。

 

貧しい下町の庶民生活の悲哀や、女の悲しみを叙情的な擬古文でつづりました。

「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」などロマン的香りの高い秀作を

次々と発表したのです。

 

 

彼女にはこんなエピソードがあります。

 

一葉には、父親が将来を見込んで決めた婚約者渋谷三郎がいました。

 

一葉の兄則義が父を後見にして相続戸主となりましたが、事業に失敗し、

多額の借金を残して死去します。

その後父が亡くなり、一葉は樋口家の戸主となります。

 

多額の借金を抱え、戸主となった一葉。三郎を婿養子とする結婚に、

後日仲介人が法外な結納金を要求してきました。

一葉の母は立腹してこの請求を断り、破談になったということです。

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栗城さん15

 

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一葉の父の見込みどおり三郎はどんどん出世していきます。

出世していく三郎に対し、困窮していく一葉は日記の中でこんなことを書いています。

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「思へば世は有為転変也けり」

「此人のかく成りのぼりたるなんことに  浅からぬ感情ありけり」と。

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一葉の思いはいかばかりか、押さえた表現の中に、

何とも言えない思いが込められているように思います。

ぐっとこらえた強さを感じます。

 

創作活動はわずか4年にすぎなかったものの、

その中で、自らの経験をも生かしながら、

女性らしい微妙な感情を細やかに描いたのですね。

また読み返してみたくなりました。

栗木さん12

 

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Nov 23, 2013

一休さんは最後までとんちで楽しませた人

11月21日は、一休和尚の命日です。

享年88歳(1481年)。

室町時代の臨済宗の僧。奇行の主としても知られています。

 

でも、テレビアニメやドラマでは、頓知の「一休さん」として知られていますよね。

 

 

一休が8歳のときの「このはし渡るべからず」や、

将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さあ、追い出してください」と

屏風の前で綱を持って構え、

周囲をぎゃふんと言わせた頓知話がありますね。

 

 

遺言の際のこんな逸話もあります。

「この先、本当に困ることがあったら、これを開けなさい」と言い遺して、

一通の封書を弟子に渡したそうです。

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何年かたって、寺に大変な難問題が持ち上り、

どうしようもなくなって弟子たちが集まって、その封書を開いてみると、

そこには「心配するな、なんとかなる」と書いてありました。

 

その瞬間、弟子たちはみな大笑いの渦の中、落ち着きと勇気と明るさを取り戻して、

難しい問題を解決できたということです。

 

さすが一休さんですね。

当時としては88歳という歳まで長生きした、豪放磊落な人物だったのですね。

 

「これは大変、一大事」と思った時、一休さんのように、

「絶対大丈夫、心配するな、なんとかなる」と

自分に言い聞かせて乗り越えていきたいですね。

銀杏紅葉

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Nov 20, 2013

碧い海のように輝く柴本一美さん

碧い海のように、きらめく星のように。

いつも輝く女性でいたい。

アロマテラピスト柴本一美さんのように。

 

柴本一美さんをご紹介します。

 

ブルーカラーがとてもよくお似合いの方です。

 

ご主人の転勤で札幌に行かれましたが、東京から離れてからのほうが、ひと回りも
ふた回りも大きくなられたようにお見受けします。

 

いつもふうっと、ため息の出るような美しいブログ・・

碧い海に吸い込まれていくようです。

 

画面を触ると星がきらきらとゆらめき落ちて・・・。

彼女の美的センスが光っています。

ああ、綺麗・・。ロマンティック・・。

 

天然のハーブオイルと精油をブレンドした貴女だけのオーダーメイドのアロマオイルを作ってくれます。

もうそのオイルでマッサージされたら、身も心もとろけそうです〜〜。

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彼女の強みは、オンライン講座でアロマテラピストを育成できること。

これは数少ない資格なのですよ!

 

主婦として、ワーキングウーマンとして日々時間がない貴女。

 

彼女も自分が体験してきた道ですから、

貴女の大変さ、苦労がよく分かります。

 

貴女を大らかに優しく導いてくれることでしょう。

 

 

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Nov 20, 2013

今日も小林一茶を偲ぶ

小林一茶(1763~1827)の人生は平坦なものではなかったのですね。

3歳で実母と死別し、8歳から継母に育てられました。

この継母は冷たい女性で、一茶は随分いじめられたそうです。

父親がその一茶の姿を見ていられなくなって、15歳のときに、彼を江戸に出したのです。

 

江戸に出て、10年間ぐらいの一茶の行状については、ほとんど分かっていません。

おそらくこれといった職にもつかず、放浪生活のような状態で俳諧に専念したのではないかと言われています。

 

25歳のころ、葛飾派の竹阿の門に入り、竹阿の没後、26庵菊明と号して判者となりました。

29歳で初めて帰省。ついで父の代参として京に上り、また西国を旅しました。

40歳のとき、父の死にあって、再び帰省。

父の死後、十数年にわたり、遺産を巡って異母弟とあらそいました。

その後ようやく解決して、故郷に安住の地を得て、52歳で初めて妻を得ました。

 

秋ドライフラワー

彼は幼児期から逆境に育ったため、複雑な性質をもち、

俳諧も多くは自ら学びとったものだったようです。

俗語や方言を駆使して、強者への反抗と弱者への共感を織りなす

人生詩的傾向の強い句を多く作ったのですね。

 

こうして一茶の生涯を見てみると、彼の作った句がさらに愛おしくなりますね。

 

夕月や 鍋の中にて 鳴くたにし

能なしは 罪もまたなし 冬籠

 

02

 

 

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Nov 19, 2013

小林一茶の命日を迎えて

今日は、俳人小林一茶(1827年)の命日です。

 

ゆかりのある寺や場所で法要が営まれるほか、句会が催されます。

一茶は信州柏原出身。

早くに母親を亡くし継母に育てられ、不遇な少年時代を過ごしました。

15歳で江戸に出て、流浪しながら俳句を学んだのです。

 

彼は52歳で結婚。

4人の子を得ましたが、次々に妻子を失いました。

 

加えて、近所のもらい火で家を焼かれ、不幸な晩年を送りました。

 

65歳の生涯を仮寓の土蔵で閉じたのです。

 

彼の句は、恵まれなかった境遇から生まれたもので、

弱いものや貧しいものへの同情を、巧みな俗語でうたいました。

 

「おらが春」「父の終焉日記」などの句集があります。

 

自らの経験から、優しさの眼差しに溢れています。

 

 

夕月を 取てくれろと なく子哉

露の世は 露の世ながら さりながら

ともかくも あなた任せのとしのくれ

 

短い句の中に、一茶の全人生が込められていると思うと、感慨深いものがあります。

経験ほど尊いものはないのですね。

句をよむ人も悲しい経験をしてこそ、その気持ちが痛いほどよく分かるものです。

 

俳句に込めた一茶の思いを今日は味わってみたいです。

 

 

紅葉一枚

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Nov 18, 2013

おでんが食べたい

寒くなると、鍋物が食卓の中心になりますね。

簡単だし、あったまるし・・。

今夜はおでんもいいですね。

 

どんな具を入れようか、楽しみです。

「おでん」は「煮込み田楽」の愛称。

 

現在のようなおでんが生まれたのは江戸中期で、江戸で発達しました。

こんにゃく、ヤツガシラ、焼き豆腐などを竹串にさしたまま煮たそうです。

 

大正時代の中頃に関西に入り、「関東だき」として親しまれました。

東京では次第に衰退し、関東大震災後、この「関東だき」の手法が関西から逆輸入されたということです。

 

おでんに付きものの辛子には殺菌作用があります。

昔屋台に衛生設備が整っていなかった頃、辛子をとるのは、合理的な意味があったのですね。

 

新しい週の幕開けです。
今週もよろしくお願いします。

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