「断・捨・離」から「捨徳」を考える

先日書きました「断・捨・離」について、ある方が「捨徳」ということをおっしゃっていました。これはどんな意味なのでしょうか。これを考えてみましょう。

 

「断・捨・離」を心の側面から見ると、「捨」と「離」の心が、仏教でいう「四無量(しむりょうしん)」の中の「捨無量心」にあたるのですね。

 

「四無量心(しむりょうしん)」は、仏教の言葉で仏が一切の衆生に対して持っている無限の愛の心のことです。人間が目指すべき心のあり方ですね。

これがひいては、自他一体の心ということなのでしょうね。
ピンクのガーベラ

慈悲の心をあらわす「慈無量心」、相手の悲しみを取り除いてあげたいという「悲無量心」、喜びを与える心をあらわす「喜無量心」、相手に対する穏やかで動揺しない心をあらわす「捨無量心」。

 

 

この「慈・悲・喜・捨」の四文字の意味を見ていきます。

 

「慈」と「悲」は、合わせて「慈悲」と呼ばれ、苦しんでいる人を見たら、その人の苦しみを除いてあげたいと思う心、「慈」は「抜苦」(ばっく)ということです。

そして、「悲」は「与楽」(よらく)、すなわち悲しんでいる人に楽しみを与えてあげたいと思う心のことです。

「喜」は自分の喜びではなく、他の人が喜んでいるのを見て、自分の喜びとするということであり、

「捨」は執着を捨てるということです。

 

 

では、「捨徳」とはどのような意味なのでしょうか。

 

相手を愛すればこそ、それに執着してはいけない、思いを解き放つということです。

例えば、子どもに対しては、溺愛しないで、時には突き放す、それはその子を真の人に育てようという智恵に基づく愛です。

また、夫が浮気をしたときに、夫をどのように見るのか、相手の女性をどのように見るのか、憎しみと怒りと拒絶を持って自分の心の中に迎え入れるのか、その思いを解き放ち、愛する者に対するのと同じように憎む者に対しても同じような心で接するのか。

この部分だけを見ればとても難しいことですね。なぜそこに至ったのかを考える必要もあろうかと思います。

 

愛憎の別を捨てて「空平等」の悟りを得ること。これが「捨徳」のようですね。

自他一体の心を体得していくことは、もちろんなかなか難しいことです。

 

この神の無限なる愛の心、自他一体の心を人々が持つように心掛けていくと、自分と他者、自国と他民族、人類と動植物などの境界を越えて、「みな尊い命をもつもの」という考え方と「みな生かされているのだ」という思いになれるのだと思います。

 

 

クリスマスイルミネーション2

 

 

 

イエス・キリストも述べていることは同じことなのですね。

「目には目を」「隣り人を愛し、敵を憎め」という言葉、行為をいさめています。

(『マタイによる福音書』第5章)

 

だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

天の父は、悪い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨も降らせてくれる。

 

天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人になりなさい。

 

門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。


言うはやすしですが、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と、生きている間、日々日常の中での学びを体験し体得していきたいと、そう願っています。

 

 

青空と雪の足跡