和のたしな美ぶろぐ
Oct 10, 2013

原点回帰〜日本舞踊公演『創国記』〜

今年は伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮の年。 

そして、出雲大社は「平成の大遷宮」と言われる60年ぶりの本殿の修造が完成したお祝いの、特別な年ですね。

「遷宮」は、ご神体を本来の場所から移して社殿を修造し、再びご鎮座いただくことです 。

大屋根の葺き替えや銅板塗装など大規模な修造を行うことから、
御本殿の新築祝いのように捉えられがちですが、

本来の意味は、神様が鎮座されたその時を再現する、
いわば「原点回帰」だそうです。

日本舞踊協会が新作公演として、出雲大社のご祭神大国主命(オオクニヌシノミコト)の『「創国記」〜神々の宿命〜』を国立劇場小劇場で上演しています。

大国主命と言えば、鮫に体の皮をむかれてしまった因幡の白兎を助けた、

優しい心神様としてよく知られていますね。

その後、多くの苦労を乗り越えて美しい須世理比売(スセリヒメ)と結婚し、

ほかの神様と協力して、国造りに努力されたとされています。

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Oct 10, 2013

七夕にちなんで、清元『流星』

7月7日は五節句の一つ、七夕ですね。
七夕は、織女と牽牛がこの日だけ天の川をはさんで会うことを許されるという、
古代中国の「星伝説」からきています。
日本古来の習慣、乙女「棚機女(たなばたつめ)」が機屋で神の神衣を織ることを「たなばた」と言いました。
神の衣は豊作をもたらすとされていました。

この二つが結びついたのが七夕の習慣です。

清元舞踊『流星』は、七夕の夜の天の川が舞台です。
牽牛と織女が一年に一度の再会をやっと果たしたところへ、
錦の唐装束の流れ星(夜這星・よばいぼし)が現れるというセッティングです。

牽牛と織女にとっては、去年の長雨のために、船で川を渡れず、逢瀬を楽しむのも三年越し。やっと会えたという感極まるところへ、流れ星が「ご注進、ご注進」と割って入ってくるのです。

空気を読めないというところでしょうか。

何があったのかと、牽牛が尋ねると、同じ長屋に住む雷の夫婦が喧嘩をしたとのこと。

流星はその様子を面白おかしく語っていきます。

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Oct 10, 2013

吉原を描く『北州』vol.2

今日も清元の名曲、格調高い日本舞踊曲『北州』から見た「吉原」についてお話をします。

 

流行の最先端であり、憧れのスター以上のアイドル花魁がいたという吉原。この吉原の風物詩を描いたのが『北州』です。

遊郭と祝舞とは、いったいどういう結びつきがあるのでしょうか。

 

遊女の源流を尋ねれば、神々に仕えていた巫女に辿り着くと言われています。

歌舞伎の元となる「歌舞伎踊り」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)も出雲大社の巫女であったという説があります。

 

平安時代にあった芸能集団、猿楽の源流の一つとされる傀儡師(かいらいし)。

これが後に、渡り巫女(歩き巫女)となったとも言われています。お祭りや祭礼や市などを求めて、旅をしながらお札を売ったり禊や祓いを行った遊女の側面を持つ巫女ですね。

 

 

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Oct 10, 2013

吉原を描く『北州』vol.1

江戸吉原にも、それぞれが抱く様々なイメージがありますね。

今日ご紹介するのは、日本舞踊家にとっては大変難しい曲とされている清元の「北州」から見た吉原です。

この曲は師範代になるための曲でもあります。

「吉原」は当時の人々にとっては美しい夢の町にもたとえられる華やかな社交場であったのですね。そしてその中心となる一流の遊女の中には、
和歌や茶道など当時としては最高の教養を身につけて、
人々から現代の歌手や映画スター以上の憧れをもって迎えられていた遊女もいたほどです。

この吉原を舞台にして誕生したのが、ご祝儀曲として格調の高い「北州」(本名題「北州千歳寿(ほくしゅうせんねんのことぶき)」です。

1818年(文政1)、作詞大田南畝、作曲川口お直によって作られました。

「北州」とは江戸の北方にあたる新吉原を指し,その四季の風物を描いた作品です。

作曲者が吉原の芸者であったので,廓の雰囲気がよく表現されています。

しかも、作詞者は、新吉原でよく遊んだといわれる狂歌の名人蜀山人こと大田南畝。雑学者で知られた粋人だけに、廓の内情にも詳しく、吉原の年中行事に、四季折々の風物をうまくからませ、いろんな故事来歴や古歌などを引用して綴っています。

「音で描いた吉原の風物詩」と言う人もあるぐらい、
美しい優雅な曲にのせて、
吉原の四季折々の風物や多くの登場人物がいきいきと描写されています。

舞踊家は、吉原の正月風景に始まり除夜の鐘まで、扇子一本で描写していくのです。

男になったり、女になったり、
松の位の太夫、振袖新造、禿、
それに幇間、酔客、武士、果ては馬士まで、
吉原を往来する20人くらいの人々を踊り分けていく、
それは大変難しい舞踊とされています。

 

IMG_4128さて、郭と祝舞、そこには単に華やかな美の世界というだけではなく、遊女の源流をたどっていくと、何かが見えてきそうです。

次回はそれについて、見ていきたいと思います。(つづく)

 

 

Oct 10, 2013

新歌舞伎座〜こけら落とし公演〜

新歌舞伎座のこけら落とし公演を振り返って
今年4月の東京歌舞伎座のこけら落とし公演は大盛況でしたね。
中村勘三郎、市川團十郎という人気スターを失った歌舞伎界にとっても、新歌舞伎座興行にかける意気込みは相当なものだったと思います。現在の歌舞伎界を代表する俳優陣が得意の演目を熱演しました。その舞台裏を密着したのが、NHKスペシャル「新生 歌舞伎座 檜舞台にかける男たち」でした。

杮葺落四月大歌舞伎

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Oct 10, 2013

吉原は男性の街

江戸庶民の娯楽、

歓楽街と言えば、女性は芝居町、
男性はそれに加えて吉原です。

 

江戸吉原は、京の島原、大坂の新町と並ぶ幕府公認の遊郭でした。

ある意味でお金さえあれば、お大尽とも崇められ、江戸時代のあらゆる社会的制約から免れた自由な世界でした。

日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にあった吉原 (元吉原) は、明暦の大火によって消失したため浅草 ( 三谷 ) に移転しました。

浅草のほうを新吉原(略して吉原)と呼びます。

江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」とも言われます。

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「郭」というのは、現代の感覚とはまったく違っていたようです。

いわば社交場でもあり、ファッション情報の基地でもあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしていまいた。

一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けていました。

日夜、歌舞伎曲が鳴り響くところでもあり、今日の邦楽、邦舞も、廓文化との関わりも深かったのです。

新春を寿ぐ歌舞伎狂言「助六」も吉原を舞台にしたものですね。

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人々が人里離れた吉原まで行くには、主に柳橋から猪木舟 ( チョキ舟・屋根のない、猪の牙のように先とがった細長い形の小舟 ) をチャーターします。

柳橋の船宿で、武士は深編笠を借り、僧侶は法衣を脱ぎ、手代は木綿を絹に着替えて、猪木舟に乗り込みます。

浅草の今戸の船宿で舟を降りたら、船宿の若い衆が提灯を持って出迎え案内され、いよいよ吉原に到着です。

遊客の胸の高鳴り、ワクワク感が目に浮かぶようです。

深川節です。

チョキで、サッサ
行くのが 深川通ひ  
あがる桟橋子
コレワイサノサ
いそいそと 客の心は、うはの空  
飛んで行き度い
コレワイサノサ  
ぬしのそば駕籠で、サッサ
行くのが吉原通ひ
おりる衣紋坂
コレワイサノサ 
いそいそと  大門口をながむれば
 深い馴染で
コレワイサノサ  
お楽しみ

 

 

Oct 10, 2013

庶民の娯楽だった歌舞伎見物

今でこそ歌舞伎は、日本の古典芸能と言われ、ちょっと堅苦しい感じがしますが、

江戸時代には、庶民の娯楽、芸能だったのです。
江戸には、芝居町という芝居小屋を中心とした芝居茶屋、食べ物屋、土産物屋などがあり、

歌舞伎興行に関わる人々も住んでいるところでした。

男性の歓楽街は吉原、女性の歓楽街はもっぱら芝居町だったのです。
その歌舞伎の楽しみ方は現代人の想像をはるかに越えたものだったようです。

歌舞伎芝居は、夜明けの一番太鼓とともに入場が始まるため、

前夜のうちに、お弁当を作って、夜道に提灯をぶら下げて、

又は駕籠をあつらえて、芝居町に向かいました。

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Oct 10, 2013

新歌舞伎座がオープンして

東京の歌舞伎座が、今年の四月、こけら落とし公演をしました。

新しい劇場がオープンし、新しい歌舞伎の幕開けですね。

歌舞伎の三大名作は、

「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」といわれています。

その理由として、

一つ目は、三本とも日本の歴史の中で著名な、日本人にとって忘れがたい悲劇の英雄たちを扱っていることです。

「忠臣蔵」の大石内蔵助 (劇中では大星由良之助) 、

「菅原」の菅原道真、

「千本桜」の源義経です。

二つ目は、戯曲として非常に高い完成度を持っていることです。

(歌舞伎でも人形浄瑠璃でもそうです。)

三つ目は、様式性が強く伝承しやすい義太夫狂言だったということです。

つまり、「義太夫狂言」という義太夫節による人形劇として書かれた戯曲を、歌舞伎に取り入れて役者が歌舞伎として上演するので、「型物」として伝承しやすかったのです。

この「三大名作」は「時代物」と呼ばれます。

歴史をベースにして、作者の大胆な創作による歴史のパロディ劇でもあり、

それぞれ壮大なスケールで展開されるドラマです。

そこには、江戸時代につくられた日本人の感覚、精神性も見え隠れします。

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今年のNHKの大河ドラマは新しい時代を切り開く女性新島八重の物語を描いていますね。

なかなか魅力的な女性ですが、この「三大名作」に日本人の原風景を探しにいってみたいと思います。

皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

 

Sep 13, 2013

「草主人従(そうしゅじんじゅう)」

9月10日、Facebookに投稿した記事です。皆様、おはようございます。
オリンピックの7年後の東京招致は、日本が大きく変わっていく予感、期待感を心から湧き上がらせてくれますね。自分も何かしたい、でも自分は何をすればいいのだろう・・と思うことはありませんか。果てしない大空と広い大地のその中で
いつの日か 幸せを
自分の腕でつかむよう

松山千春の『大空と大地の中で』は、自分が元気を失った時、
私を助けてきました。今もそうです。

大地に立って、両手を広げて、体全体で風を、空気を、匂いをいっぱいに感じて・・
そうだ、一人じゃないんだ・・、涙が出てきます・・。

日本人は雨でも風でも自然界のものに、いろんな名前をつけてきました。

畑や海の仕事をする人も、そこに季節を知り、またその作業の目安にもしてきたのですね。

春一番(はるいちばん)
黒南風(くろはえ)・荒南風(あらはえ)・白南風(しらはえ)
白南風(しらはえ)
野分(のわき)
颪(おろし)

秋、台風とともにやってくる「野分」
稲作の生育にも被害を与えます。
今年も、日本全国、実り豊かになりますように〜!

黄金色に輝く田んぼとみんなの笑顔を思い描いて・・。(*^^*)

おれたちは自然に生かされている存在だあ〜。
お天道さまと水と草木がなくっちゃ生きられねえ。
すべての生き物と共生しているんでさあ〜。

江戸の人々は「草主人従(そうしゅじんじゅう)」と考えていたのですよ。
そして、エコライフを実践していました。
こういう生活を意識する中から、自分にふさわしい何かが見つかるはずです。☆

今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいませ。
行ってらっしゃ〜い。♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪

写真 2013-09-10 8 57 38

 

 

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Sep 13, 2013

重陽の節句

皆様、おはようございます。

今では忘れがちな「重陽の節句」。

「菊の節句」ともいわれます。

9月9日は「9」が重なるところから、「重陽」としてお祝いしました。

菊が咲くこの時期、菊の香りを楽しむのもいいですね。

菊は、仙境に咲く花と考えられました。

平安時代、宮中では「菊酒」を酌み交わす行事が行われたそうです。

「菊酒」を飲んで、邪気を払い、長寿を願ったのですね。
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重陽の節句の前日に、こんなこともしました。

「菊被綿(きくのきせわた)」です。

この重陽の節句の前日に、菊に綿をかぶせて香りを移し、翌朝、露に湿った綿で顔や身体を拭いて、邪気を払いました。

枕草子や源氏物語にも「菊水」などの言葉が出ています。

優雅です。菊はそんなに香り立つものだったかなあと思いますね。

色々なところで菊の品評会や菊人形展が開催されますね。

菊

長崎では、9月9日を「お九日(くんち)」として、

旧暦の日に収穫祭と習合して「長崎くんち」でお祝いするそうです。

季節を肌で感じるいろいろな行事。

自然現象から実際の体験を通して知る「暗黙知(あんもくち)」。

江戸の人が子どもの教育にも大切にしたことです。

今こそ子供たちに体験してほしいですね。

今週もよろしくお願いします。
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オレンジ色の紅葉

 

 

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