おはよう に おはよう!
「おはよう に おはよう!」
僕たち仲良し。この言葉、知ってるよ〜。
「おはよう〜」と言われたら、
「おはよう〜」とこたえる。
これが江戸長屋の庶民の朝の挨拶。
どうして「文楽」と呼ばれるの?
皆様、おはようございます。
「人形浄瑠璃」のことを現在では「文楽」と呼んでいますよね。
これは、どうしてかと言いますと、
18世紀に一度歌舞伎の人気に押されて衰退しつつあった人形浄瑠璃が、19世紀に植村文楽軒という人によって大阪で復興したことから、現在では人形浄瑠璃のことを「文楽」と言うようになったそうです。
「情を語り、情を弾き、情を動かして見せる」
そこから人間を生き生きと描写しようという芸です。
浄瑠璃の言葉が大阪弁であり、文楽は浄瑠璃から作品のほとんどを取り入れているからです。
人形遣いの吉田箕助さんが言っています。
人形が生きているようだとか、人間のように動くとか言われていますが、人形も初期は人間に近づくように写実性を追求していました。
でも、もう人形の開き直りですよ。「うしろぶり」などがその例です。
人形の限界を人形の可能性へと転換させたのです。そして、人形にしかできない独特の美を完成させたのです、と。
箕助さんがニューヨーク公演のときに、著名な演出家やモダンバレエの演出家がびっくり仰天したそうです。誰があんな振り(「うしろぶり」のこと)を考案したのかと。
それは昔から伝わっているものでしてと、答えるしかなかったそうです。
修練と伝統に裏付けされたものなのですね。
ところで、人形とは、生と死を連想させる憑坐(よりまし)として、人間の身体の身代わりとして神霊が宿るという側面もありました。そんな使われ方もしてきたのですね。
三百余年の芸と知恵が凝縮された文楽。人形でしか表せない芸と人間描写。
次回は、当時の人がホットなニュースとして舞台で見た、近松門左衛門作『曽根崎心中』をご一緒に味わってみませんか。(つづく)
今日の日曜日、佳き時間をお過ごしくださいね。
夏の夜は まだ宵ながら
皆様、おはようございます。
夏の夜は まだ宵(よひ)ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿(やど)るらむ
清原深養父(きよはらのふかやぶ) 『古今集』
.
.
夏の夜はとても短いものだ。
まだ夜になったばかりの宵の口だなあと思っていたら、もう明けてしまった。
これだけ明けるのが早いと、
月もとうてい西の山までたどりついて休むことはできないだろう。
今、月は空のどのへんにいるのやら。
雲のどこかに宿をとって、ぐっすり休んでいるのだろうか。
.
.
「枕草子」の作者でもある清少納言の曽祖父が詠んだ歌です。
たった今、夜になったかと思ったらもう明けてしまった。
なんと夏の夜の短いことかと、月が雲にお宿をとったのだろうかと、言っています。
こんな風流な発想はお見事ですね。
.
夜は暑くて寝苦しいと思うばかりではいけないようですね。
たまには夜、月を見る余裕を持ちたいものです。
今日も輝きが訪れますように。
お元気に、行ってらっしゃ〜い。
68回目の終戦記念日に寄せて
皆様、おはようございます。
今日は68回目の終戦記念日です。
皆様の抱く思いにも、様々なものがあると思います。
次の言葉を祖霊に捧げたいと思います。それぞれの立場で、命の花を散らしていった祖霊たち。
彼らの無念や悲しき思いには計り知れないものがあることでしょう。
.
今ここで、手を合わせて「ありがとうございます」と言うことは、
彼らの魂に、無明の中で明かりを灯すこと。良きことも悪しきことも、より良い時代を切り拓くためのステップ。
今があることは彼らの尊き命の礎の賜物。お盆に祖霊のおみたまを導くほおずきの灯りのように、
私たちの祈りは彼らに届き、きっと彼らの闇を照らすことでしょう。
そして、私たちが生きる日本の平成の世を見護ってくれると信じています。
今日は、新しい時代へ向かう第一歩。心から、ありがとうございます。
そして、私たちには、次の世代へ語り継ぐ使命があるのです。
皆様、今日も喜びに満ち溢れた一日をお過ごしくださいませ。
.
.
盆棚には茄子と胡瓜
皆様、おはようございます。
「御仏も 扉をあけて 涼みかな (正岡子規)」
.
旧暦のお盆(盂蘭盆会)の季節ですね。
盆棚を飾って、昨日は迎え火で祖霊をお迎えされたことと思います。
盆棚は、地域や宗派によって違いがありますが、
ご先祖様に感謝をし、ご接待する心をもって、自分のできる限りをすればよいとされています。
豪華さや立派さは問題ではないということです。
.
「牛・馬」胡瓜と茄子にきびがらで足をつけて飾りますね。
これは、ご先祖様に胡瓜の馬で早くきていただき、
茄子の牛でゆっくり帰っていただくための霊の乗り物です。
極楽浄土と現世の行き帰りに使うものです。
.
「水の子」胡瓜と茄子をみじん切りにして洗米と混ぜ、水を張った蓮の葉に盛ったものをお供えすことがありますね。
これは、無限の食べ物をお供えするという意味があるそうです。
.
「ほおずき(鬼灯)」は提灯の形をしているので、
ほおずきの提灯が先祖の霊がお盆に帰ってくるときの道を照らすと考えられてきました。
.
.
今日、私たちがこうして肉体を持って、つつがなく暮らしているのも、ご先祖様あってのことだと思います。
こういう節目節目にご供養することは、自分や家族を愛することでもありますね。
今日も平和で佳い一日をお過ごしくださいませ。
.
.
瀬をはやみ
皆様、おはようございます。
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ (崇徳院)
この川の流れは激しく、速い。
岩にせき止められた水がその岩に当たって割れてしまうほどだ。
たとえ、あなたと今別れたとしても、水の流れが下流で再びゆき合うように、
いつの日か、あなたと必ずまた逢おう。
きっとだ。
.
人を愛する思いはいつの世も変わらぬもの。
いくさや災害など、時の運命によって、世界中どれほどの人々がこのような思いを抱いてきたことでしょう。
日本人として、祖霊に祈りを捧げたいと思います。
皆様、今週もたくさんの喜びが訪れますように。
.
人形浄瑠璃(文楽)
更に歌と歌との間には「合の手」が挿入され、名人芸的な技巧も発達しました。
江戸、大阪、京都では、それぞれの特色ある浄瑠璃が発達しました。「人形浄瑠璃」だけではなく、歌舞伎芝居と結びついたり、音楽本位の「歌浄瑠璃」になったりしました。
また、「歌浄瑠璃」から、一中節、豊後節、この豊後節から常磐津節、清元節などが生まれました。現在舞踊でも有名な常磐津、清元も、ここから誕生したのですね。(つづく)
勝道上人と天海大僧正〜日光4〜
「谷を見下ろせば院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」と、
連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が当時の日光山の繁栄ぶりを紀行文「東の津登」で著しています。
鎌倉時代、室町時代、京の比叡山に次ぐ寺格を朝廷から得るほど、日光山は繁栄しました。
.
しかし、その後、豊臣秀吉が天下統一のため小田原を攻める際、日光山の僧兵が北条氏に味方したために寺社領のほとんどを秀吉に没収され、衰退していったのです。
これほど変わり果てた日光山がどうして今日のようになれたのか、とても興味深い出来事です。
.
.
中禅寺湖の中にある小さな島には、勝道上人と天海大僧正の遺骨が納められています。
日光にとってこの二人は大変重要な人物なのですね。
.
徳川家康は全天台宗の実権を握りつつあった天海大僧正に出会いました。
それは日光山を蘇生させる運命的な出会いでもありました。
日光衰退からわずか30年で日光は蘇生していきます。
天海は日光の重要性を家康に語っていきます。
家康は、「自分の一周忌後、日光山に小堂を建て関八州の鎮守として祀るように」と、天海に遺言しました。
そして、「東照大権現」として、家康は東照宮から江戸を見守ることになりました。
.
天海大僧正は呪術的にも優れた洞察力と天才的な運命学の知識を持っていて、家康も高く評価していたといいます。
日光は江戸の真北、「北」は生命をコントロールする気が生ずる場所。
古代中国の天道思想も取り入れて、家康が大権現として、北方から北極星を背に江戸城を守るというわけです。今の皇居は家康から守護されているのですね。
天海は、江戸城構築にも、八門遁甲(はちもんとんこう)の秘法により子孫繁栄の方位を使ったり、鬼門にあたるところには神社を建て、法を修したといいます。
江戸城から見ると、日光も鬼門にあたるところです。
東照宮を建てたというのも納得できます。
日光市内でも、勝道上人と天海大僧正がそれぞれ表と裏の鬼門を守護していると言われています。
世界中から大勢の観光客を日光に迎えて、この二人の偉人は今どういう思いで見ているのでしょうか。
.
.
奇跡の橋「神橋」〜日光3〜
奈良平安時代、朝廷が支配していた頃、白河の関以北は外国だったのですね。
日光のある下野は、外国である蝦夷地との境界線にありました。
ここは東北地方の蝦夷鎮めの場所として、下野は重要な地点でした。
朝廷の命令によって蝦夷を平定するために東北地方に赴くという役職が「征夷大将軍」でした。
坂上田村麻呂も日光山に戦勝祈願に赴き、その後、東北全土を平定したと言われています。
.
.
蝦夷地を遥かに見渡せる男体山。
修験道の山でもありますが、東北地方に向かって、たくさんの銅鏡や銅印が山に埋められていたという、特別な祈りがされていた場所でもあります。
.
.
日光山開祖の勝道上人(しょうどうしょうにん)。
蝦夷地を遥かに見渡せる男体山の登頂を、苦行練行の末、17年の歳月をかけて3回目の登頂で果たしたのも、男体山で仏法を修して国家鎮護を祈願をするという目的もあったのですね。
現在、世界遺産になっている日光東照宮をはじめとする二社一寺がある場所は、当時ジャングルのような密林でした。
上人一行が男体山の登頂を果たすため、まず大谷川(だいやがわ)という急流を渡った時、深紗大王(じんじゃだいおう・毘沙門天)が2匹の蛇を放ち、蛇の背中から止ま山菅が生えてきて、橋になってくれたおかげで、彼らは歩を進めることができたという逸話が残っています。
それが「神橋(しんきょう)」です。
別名「山菅の橋」「山菅蛇橋」と言われています。
この橋も世界遺産に登録されています。
芭蕉「おくのほそ道」〜日光2〜
日光は、かつて米軍が避暑地として接収したほど、自然に恵まれた美しい景色を有するところです。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で日光に立ち寄ったことを書いています。
芭蕉が最も敬愛した西行法師の遺跡をたどって奥州路の歌枕を訪ねることを目的として、門弟河合曾良とともに約半年間の旅を出ました。
.
.
江戸の芭蕉庵を出発して、宇都宮、鹿沼から日光へ。
そして、奥州の入り口、白河の関を目指します。
「あらたうと 青葉若葉の日の光」
日光東照宮を参拝した芭蕉がその威光の素晴らしさを褒めたたえています。
.
.
三代将軍家光公が寛永の大造替をしたことによって、現在の豪華絢爛たる東照宮を造営しました。
みちのくへの旅の途中に日光へ寄って、日光の名所旧跡を訪ねる文人が多かったようです。
日光は関東の北端。そして、みちのくの旅の入り口、白河古関趾で多くの歌が詠まれ、みちのくへと向かうのです。
みちのくへの旅は、多くの文人にとって、まだまだ未知の世界のようでした。
竜頭ノ滝上流から中禅寺湖へ