畳一畳で舞う上方舞
三味線音楽No.8
今日は「上方舞」について、ご紹介したいと思います。
京や大阪の上方で発達した舞踊を総称して「上方舞」といいますが、
その地歌の演奏は、長唄や浄瑠璃のように高い台に乗らずに、
平床に毛せんを敷いて、そこで演奏されます。
「上方舞」は、歌詞の内容にいって、次のように分類されます。
「葵の上」「鉄輪」「八島」など。
「愚痴」「ゆかりの月」「雪」など。
手事物としては「鐘が岬」など。
「荒れ鼠」「かわず」など。
「京の四季」「東山」など。
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酒宴席の座敷での舞として行われていたので、埃をたてないように、
一畳の空間でも舞うことができるように作られています。
屏風を立て、燭台にロウソクを灯して舞われることが多いのも座敷で舞われていた名残ですね。
「上方舞」は、能の動きを基本に歌舞伎や浄瑠璃の要素を加えたもので、
優雅な落ち着いた舞が特徴です。
女性の心理を表現した演目が多く、深い心情を舞で表現しています。
江戸前の舞踊とは全く違った味わいがあることに気付かれることと思います。
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掛合という三味線音楽のコラボレーション
三味線音楽No.7
昨年の中村勘三郎丈の訃報は日本中の人に悲しみを与えましたね。
元々、中村屋は、江戸時代に芝居小屋の興行主でした。
面白い演目を庶民に提供していたのですが、そのサービス精神から、
今度は自分たちが舞台で演じようということになったのです。
人々を楽しませようという中村屋の心をまさに体現していたのが、
中村勘三郎丈だったと思います。
舞台で何をやっても華があり、踊りの名手でもありましたね。
江戸時代の文化文政の頃、同じ舞台で異なる種目の三味線音楽を演奏する「掛合」の形式が生まれました。
文化が熟成し、新奇なものや華やかなものが求められていた時代でしたので、
掛合の演出は大変効果的でした。
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特に早変わりで踊る変化舞踊(へんげぶよう )が流行してからは、
長唄と浄瑠璃の掛合が盛んになりました。
長唄と常磐津節との掛合のとして、「瓢箪鯰」「奴道成寺」
長唄と清元節の掛合として、「座頭」「舌出し三番叟」
長唄と竹本の掛け合いとして「素襖落」
三味線演奏者は、何挺何枚(なんちょうなんまい)
三味線音楽No.6
江戸時代に歌舞伎所作事の地の音楽としての長唄は、その後の舞台上の一つの演奏形式を確立しました。
現代の日本舞踊の舞台形式も同じです。
長唄は舞台正面後方の二段の雛壇の上段で演奏されます。三味線は暗譜で演奏し、歌い手は見台に譜面を乗せて前に置いています。
三味線は「何挺(ちょう)」と数え、歌い手は「何枚」と数え、
「五挺五枚」とか「七挺七枚」というふうに人数をあらわします。
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バレエやオペラなどの洋楽の演奏家が舞台前面下の、
穴のようなオーケストラボックスで演奏されるのとは対照的で、
興味深いです。
さらに舞台にはお囃子が加わり、
舞台の三味線の一段下で演奏する出囃子と舞台の下手(客席から見て左)の陰の黒御簾の中で演奏する陰囃子とがあり、
「下座音楽」とも言われています。
伴奏音楽になった長唄
三味線音楽No.5
江戸時代、三味線は庶民の心を捉え、一大ジャンルとして発展しました。
歌舞伎が1600年に、出雲の阿国によって京都の四条河原で「カブキ踊り」として始まった時は、
能の楽器を応用した囃子が中心でした。
歌舞伎舞踊に三味線が用いられたのは遊女歌舞伎になってからのようですが、実態はよく分かっていないようです。
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1629年に遊女歌舞伎が禁止され、現在のような野郎歌舞伎が生まれて発展するようになるのですが、
その頃になって、三味線が重要な楽器として使われるようになっていきます。
歌舞伎における三味線方は、当初盲人音楽家たちの指導の下にありましたが、
次第に独立して「長唄」演奏家となっていきました。
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18世紀後半、幕府の統制強化政策によって、上方の町人文化が沈滞化し、逆に江戸の文化が開花し始めます。
その時、上方歌舞伎の名女形 (おやま)が江戸へ相次いで下り、
同時に三味線方や囃子方も江戸へ下って、江戸で活躍するようになります。
そして、歌舞伎所作事の地の音楽として、長唄は不動の地位を得るようになりました。(つづく)
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江戸時代、三味線が流行
三味線音楽No.4
江戸時代、新参楽器の三味線はあっという間に庶民の心をとらえて、様々な種類に発展していきました。
それは歌詞の内容や節回しなど、その歌い方や語り方に差異が生じていっただけではなく、
三味線という楽器そのものにも細かい工夫が凝らされていきました。
つまり、音楽の種類の多様化とともに、その音色にも変化を求めて、
その曲種にふさわしい微妙な味わいを出していきました。
これは洋楽の楽器とは全く違うところです。
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同じ楽器でどの種目も演奏される洋楽器とは異なり、
三味線は楽器の大きさも棹の太さも、皮の張り具合、糸の太さ、駒の形、撥の大きさや厚さも
みんなそれぞれの種目で違うため、音色もすべて微妙に異なります。
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一般的に三味線は、棹の太さによって、「太棹」「中棹」「細棹」の三種に区分します。
「細棹」は、長唄、江戸の端唄や小唄、河東節、荻江節などに用います。
「中棹」は、上方舞の伴奏としての地歌や常磐津節、清元節などに用います。
「太棹」は、義太夫節の三味線で、お腹にデンデンと響く、太くて力強い音色を奏でます。
京舞の地として祇園の綺麗どころが演奏する京三味線は、
「細棹」よりも更に細い棹の三味線で、撥も、琵琶法師が使っていたような、小さくて独特のものです。(つづく)
琵琶法師がつくった音楽ジャンル
三味線音楽No.3
琵琶法師がつくった2つの音楽ジャンル、
1つ目は当時民間に流布していた流行り小唄をつなぎ弾いて歌う「地歌」、
2つ目は「平家物語」などの「平曲」を弾いて語る「浄瑠璃」でしたね。
三味線の技巧の発展とともに歌詞に一連の意味あるものをつくるようになり、
「長歌」と呼ばれました。また短い洒落た歌詞を用いた創作曲は「端歌」と呼ばれました。
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2つ目の「浄瑠璃」は、人形芝居と結びついて「人形浄瑠璃」として興行されるようになりました。
また、浄瑠璃の語り手が独立して「太夫」と呼ばれ、
江戸、大阪、京都では、それぞれの特色ある浄瑠璃が発達しました。
「人形浄瑠璃」だけではなく、歌舞伎芝居と結びついたり、音楽本位の「歌浄瑠璃」になったりしました。
この「人形浄瑠璃」は、大阪に竹本義太夫が登場して、大作家の近松門左衛門と組んだことで、
「義太夫節」が人形浄瑠璃の代名詞になるまでになりました。
義太夫節は歌舞伎にも取り入れられていきます。
現在舞踊でも有名な常磐津、清元も、ここから誕生したのですね。(つづく)
木戸番は焼き芋を売っていた
ときどき目にすることがあります。
盗人や強盗がやってきても、火事になっても、
国が国費を使って警備するのではなく、
町人たちが町費を出して管理するという、
自費組織だったのですね。
江戸の町人地では、この木戸番がもうけられ、
夜四つ(夜10時)から明け方六つ(朝六時)まで閉められ、
通行ができなくなりました。
北原亞以子原作の「とおりゃんせ〜深川人情澪通り」がNHKの「金曜時代劇」で放映されたことがありました。
それぞれの過去を秘めたこの夫婦と町の人々との交流を描いた物語でした。
池上季実子演ずる女房お捨が、女性から見ても、なかなか味わい深く、とても素敵だったなと、印象に残っています。
人情味があって、身のこなしも女性らしく優雅さもあって、あこがれでした。
人のいいこの実直な夫婦が醸し出す雰囲気にも温もりを感じていました。
人気のドラマでした。
当時、こういう人たちが大勢いたのだろうと思いますね。
木戸番は、番小屋ともいわれ、毎日の木戸の開閉は大家や月番がしました。
ただし、夜の10時以降、脇のくぐり戸の開閉と、夜間の火の用心の夜回りは木戸番がしたようです。
木戸番は町雇いで、年に一両か一両二分の低い給金なので、わらじ、駄菓子、ろうそく、ほうきなどの日用雑貨、冬は焼き芋などを売ることが許されていました。
実際には、住み込みの独身やお年寄りの独り者が多かったとか。
江戸の木戸番でも冬は焼き芋を売っていたのですね。
香ばしい香り、今もその香りに誘われて、食べたくなります〜。
今週も秋を楽しみましょう。秋を見つけたら、また教えてくださいね。
どうぞよろしくお願いします。☆
琵琶法師は音楽教師だった
三味線音楽No.2
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
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ご存知、『平家物語』の冒頭ですね。
実は、琵琶法師はこの『平家物語』のような合戦譚や英雄譚だけを語っただけではなく、
日本の音楽の礎を作った人でした。
例えば、牛若丸とその恋人の浄瑠璃姫の物語を三味線で語り、これが非常に人気を博したそうです。
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ここから、語り物のことを「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。
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このように最初に三味線音楽に関わった琵琶法師は、
次の2つの音楽ジャンルをつくったのです。
1つ目は、「歌い物」の原型である「地歌」、
つまり当時民間に流布していた流行り小唄をつなぎ弾いて歌うこと、
2つ目は、「語り物」の原型である「浄瑠璃」、
つまり「平家物語」などの「平曲」を弾いて語ることです。
この平曲をかたる琵琶法師のお話ですね。
また、彼らは合戦譚や英雄譚のほかに、
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牛若丸とその恋人の浄瑠璃姫の物語を三味線で語り、
これが非常に人気を博したそうです。
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ここから、「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。
室町時代に平曲で専門組織である当道座を作るまでに至った盲人音楽家たちは、
江戸時代になると、幕府の保護を受けることになりました。.
従来の平曲に加えて、箏や三味線、海外からきた胡弓の演奏も行うようになって、
大名屋敷や商家、庶民の社交場であった遊里や芝居小屋でも、
彼らは演奏したり、教えたりしました。
一般の市井の人々はそうした音楽を楽しんだり、習ったりするようになりました。
.特に三味線は、持ち運びができるということで、
家庭音楽、座敷音楽のほかに、
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様々な種類の音楽を生み出すことになっていきます。(つづく)
三味線音楽の始まり
三味線音楽No.1
今日は庶民の音楽としての三味線音楽の始まりについて、
少しご紹介します。
室町時代の以降の武士はそれに加えて能楽を楽しみ、
庶民は笛や打楽器などを楽しんでいました。
三味線の祖型になる楽器が大阪の貿易港の境に上陸しました。
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それが、南の琉球(沖縄)の三線(さんしん)という楽器で、
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三線の胴体は蛇皮なので、しばらくすると破れてしまいます。
でも、日本には大きな蛇の皮を調達することはできなかったので、
手近な皮を張って工夫した結果、猫や犬の皮を張った現在の三味線が誕生しました。
最初に三味線音楽に関わったのは琵琶法師でした。
やがて、そこから、主として歌曲を旋律的に聞かせる「歌い物」と、
物語を劇的に聞かせることを主眼とした「語り物」という、
二つの大きな流れの発展していくことになるのですね。(つづく)
江戸っ子に「忙しい」は禁句だった
顔色を変えて怒ったそうです。
ええ? どうして?
江戸っ子のように、そんな時は「ご多用のところ、誠に申し訳ありませんが・・」と語りかけたり、応える時にも「いやあ、今雑用に追われていまして・・」