吉原は男性の街

江戸庶民の娯楽、

歓楽街と言えば、女性は芝居町、
男性はそれに加えて吉原です。

 

江戸吉原は、京の島原、大坂の新町と並ぶ幕府公認の遊郭でした。

ある意味でお金さえあれば、お大尽とも崇められ、江戸時代のあらゆる社会的制約から免れた自由な世界でした。

日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にあった吉原 (元吉原) は、明暦の大火によって消失したため浅草 ( 三谷 ) に移転しました。

浅草のほうを新吉原(略して吉原)と呼びます。

江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」とも言われます。

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「郭」というのは、現代の感覚とはまったく違っていたようです。

いわば社交場でもあり、ファッション情報の基地でもあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしていまいた。

一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けていました。

日夜、歌舞伎曲が鳴り響くところでもあり、今日の邦楽、邦舞も、廓文化との関わりも深かったのです。

新春を寿ぐ歌舞伎狂言「助六」も吉原を舞台にしたものですね。

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人々が人里離れた吉原まで行くには、主に柳橋から猪木舟 ( チョキ舟・屋根のない、猪の牙のように先とがった細長い形の小舟 ) をチャーターします。

柳橋の船宿で、武士は深編笠を借り、僧侶は法衣を脱ぎ、手代は木綿を絹に着替えて、猪木舟に乗り込みます。

浅草の今戸の船宿で舟を降りたら、船宿の若い衆が提灯を持って出迎え案内され、いよいよ吉原に到着です。

遊客の胸の高鳴り、ワクワク感が目に浮かぶようです。

深川節です。

チョキで、サッサ
行くのが 深川通ひ  
あがる桟橋子
コレワイサノサ
いそいそと 客の心は、うはの空  
飛んで行き度い
コレワイサノサ  
ぬしのそば駕籠で、サッサ
行くのが吉原通ひ
おりる衣紋坂
コレワイサノサ 
いそいそと  大門口をながむれば
 深い馴染で
コレワイサノサ  
お楽しみ