野菜は、四里四方(よりしほう)から
百万の人口を抱えていた都市江戸。
彼らの胃袋を満たすための食料もちゃんと確保できていました。
今はいろんな野菜を遠方から取り寄せて売っていますが、江戸では「野菜は四里四方(よりしほう)」といって、だいたい四里(約16Km)以内のところから葉物などの野菜が供給されていたのです。
冷蔵庫がない時代ですが、いつも新鮮で無農薬の野菜が入ってきて、とれたてのものを食べたり、煮物や漬け物にしたりしていました。しかも、すべて無添加です。
知れば知るほど、無駄のない、合理的な暮らしをしていたことが分かります。
紙、衣類、野菜や果物から家屋まで、すべて自然素材。木材以外のものはすべて太陽エネルギーから作られるものばかりです。最後は土に戻っていくだけです。
生ゴミが出ても、周りが農地ですから、帰りの船や馬にのせて持って帰って、堆肥にしてしまうので、これも無駄がない。
下肥(しもごえ)も江戸周辺の農村で全部肥料にしてくれていたのです。
この近郊の農家のほうが肥料の生産のおかげで裕福に暮らしていたともいいます。
武士の給料もほとんどベースアップなし。
江戸城の工事で働く大工の賃金も、2倍になるのに200年かかるほどだったそうですから、ほとんど賃金も生涯変わらなかったのですね。
現代人は右肩上がりに生きていかなければならないと、どこかで思い込んでいるものですが、そうしなくても暮らすことができたのです。
ですから、みんなシンプルに生きていたのです。
現代のように、ゴミの処理をどうするかなんて、悩まなくてもうまく循環していました。
太陽エネルギーの恩恵だけで自給自足で生きた、そんな時代があったのですね。
まさに、お天道様のおかげで生きていた都市です。
お天道さまが見ていなさる
ー江戸の街は日の出とともに動き出す。
江戸の人々の一日は、朝、東から昇ってくる太陽に手を合わせることから始まり、夕方、西へ沈む太陽に手を合わせて終わります。
「お天道様が見ている」
「お天道様に嘘はつけねえ」
日の出とともに起きて、精一杯一日の活動をしたら、明日の備えて「明日備」を楽しみ、日没とともに寝る、それが江戸の人々の普通の暮らしのリズムだったようです。
田畑の実りも山海の珍味も四季折々の暮らしも「お天道様」のおかげだと思っていました。
太陽に尊敬と感謝を込めて、「お天道様に見られて恥ずかしいことをしてはいけない」と、
自分を律し、戒める、そんな生き方を自然にやってきたのですね。
小さい頃、おばあちゃんから、「ほら、お天道様が見てるよ。悪いことをしちゃいけないよ。」と、そんなことを言われませんでしたか。
さあ、太陽に向かって、「陽に生きる」でいきましょう。
はたらくは、傍(はた)を楽にすること
江戸っ子は、「朝飯前」に軽いフットワークで向こう三軒両隣に声をかけて、困った人がいないか様子を見て回って、
朝ご飯の後は、身過ぎ世過ぎ(生活)のための働き、お金を稼ぎました。
昼食が済んだ午後からは、人のため、町のための「はた(傍)を楽にする働き」、ボランティア活動に精を出しました。
夕方は、明日も元気に働くため「明日備」、あそび、リフレッシュをして楽しんだのです。
ボランティアばっかりで、どうやって稼いでいるのと思いますね。
杉浦日向子さんに言わせれば、
「江戸っ子の基本は三無い。持たない、出世しない、悩まない。」だそうです。
肩の力が抜けた生き方ですね。
温もりのある人付き合いに精を出していたことが分かります。
「はたらく(傍楽)」は、周囲(傍)の人を楽にする、楽しくするという意味があると言われています。
その反対語は、周囲(傍・はた)に不快な思いをさせる、迷惑をかける意味の「はた迷惑」だそうです。
もともと労働階級が資産家に時間を拘束されて「働く」という考え方からきているものなのですね。
日本と西洋との「働く」ことの意味合い、こんなにも違うことに気づかされます。
日本の「働く」には、奉仕するという意味合いが含まれていて、苦しいもの、拘束されるという概念はなかったのです。
さあ、肩の力を抜いていきましょう。
「朝飯前」という言葉
朝温かい布団の中から出たくない、そんな気候になりましたね。
「そんなことは朝飯前だ」とよく言いますが、
意外に自分では使わない言葉のようにも思います。
「そんなことは朝飯前だ」は、それは人に何かを頼まれても、素早く対応できる、
簡単にできることですね。
江戸庶民の間では、朝ご飯の前のボランティア活動を「朝飯前」と言ったようです。
朝起きたら顔を洗い、身だしなみを整えて、神仏に感謝して外へ出る。
向こう三軒両隣りの道路を掃いたり、水を撒いたりしました。
毎日こんなことをやっていると、ご近所の様子がよく分かるのです。
まさかの時、些細なことが起こった時に、軽い足取りで素早く対処しました。
病気の人や一人暮らしのお年寄りに声をかけたり、家の修理を手伝ったり、ぼやが発生していたらすぐに火消しをしたり、手間をいとわずに素早く処理するのが江戸っ子の本領だったのです。
今は住環境も人付き合いもすっかり変わってしまいましたが、
現代版「朝飯前」のボランティア活動、どんなものがあるでしょうか。
例えば、早朝、花への水やりや落ち葉の掃除なども、ちょっとご近所の分もやってみるとか、家の中の掃除をやってみるとか、心もスキッとしてきそうです。
「こんなの簡単、朝飯前さ」と軽やかに言えるようになりたいですね。
江戸っ子のフットワークの軽さ、見習いたいです。
もったい大事
現代の、車内で若い女性が化粧をすることの可否、
江戸の娘がすっぴんに決め色を使うシンプルな化粧や
渋色好みの江戸っ子のおしゃれなどのご紹介。
そして、亥の子祭りと亥の子餅、炉開きのことなど・・、
今週はご紹介しました。
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立冬〜裏技「表まさりの裏小袖」江戸の男の美学
冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也
昨日、立冬を迎えましたが、
暖かい日もあれば、寒い日もあって、日々いろいろに変化します。
それでも、北国からは初雪の便りがもうすぐ届きます。
もうそういう時期なのですね。
昨日お話しました江戸の着物で人気の鼠色。
これは黒から白まで100種類もあったというから、この感性と技術たるや、現代人もかなわないほどです。
江戸の中期までは上方主導の文化でしたから、着物も色目が華やかな友禅染めや、刺繍、総絞りなどを施していました。
ところが、後期になって、衣装に関する幕府の禁令が度々出たのです。
それまで町人の富裕層が衣装にも贅を尽くしていたのでしょう。
豪華な衣装を持っていても着てはならぬ、
値は二百五十匁限りとか、縫いのある衣類は禁ずる、とか。
そこで引っ込まないのが江戸っ子の意気です。
地味な色にもグラデーションをつける。
「四十八茶百鼠(しじゅうはつちゃひゃくねずみ)」なるものもうまれました。
町人上層の主に男性が考えた「表まさりの裏小袖」。
表は無地や縞柄で生地も木綿など質素に見えるのに、裏地は絹などにして凝った模様を染め出すなど、実はたいへん贅沢なことだったのですね。
男性の羽裏の柄の素敵なことは今でも語られていますね。
江戸後期に独特の美学が生まれたのは、むしろ幕府の規制があったればこそですね。
しかも、それを逆手にとって、新たなおしゃれを生み出す。
ただでは起きぬ江戸っ子の心意気。
今日もその気骨をいただきです。
お心肥やしでまいりましょう。
口切の茶事と江戸の二大流行色〜茶色と鼠色〜
茶人が行う「炉開き」。
これは「口切(くちきり)の茶事」とも呼ばれます。
その年の初夏に摘んだ新茶をまろやかにするために茶壺の中で茶葉を熟成させます。
「炉開き」のとき、口封を切ってその葉茶を取り出し,茶臼で挽いて抹茶にしていただきます。
これは「茶の湯の正月」ともいわれ、重要な茶事です。
そして、茶道ではこのころからお正月になります。
床に飾られた新茶の壺の封紙を切って茶葉を挽き、茶を点てる茶事。
鉄釜で煮たてた湯とまろやかな茶をお客様に差し上げる。
言葉はいらないですね。
最高のおもてなしです。
さて、江戸っ子の着物の好みは渋い色合いの無地が基本でした。
これは「雀の羽色」といわれました。
茶色と鼠色は江戸の二大流行色。
この渋い色調の中で微妙な色の違いを出して、個性的な着こなしを楽しみました。
「四十八茶百鼠(しじゅうはつちゃひゃくねずみ)」
茶色が48色、鼠色が100色、それだけの微妙な色合いを江戸の染物屋は揃えていないと、商いにならなかったのですね。
当時着物はとても高価で贅沢品でした。
着物を新調するときは、好みの色や柄を呉服屋の見本帳から選びます。
四十八茶百鼠に加えて、呉服屋独自の色があったそうです。
何度も店と打ち合わせをして、オーダーメイドで作りました。
素材や色を何度も吟味して作る着物。
着物を新調するときは、さぞかしワクワクで、楽しかったでしょうね。
亥の子餅と江戸っ子のお洒落の決め手は?
11月5日は、「亥の子餅」を作って田の神にお供えする日でした。
春、田に降りた田の神が、収穫をもたらして山に帰る日。
来年の豊作を祈願する意味も込められていますね。
この日、多産であることから生産の象徴とされる亥の子に似せた形の「亥の子餅」を作ってお供えします。
この餅を、亥の日、亥の刻(午後9時から11時ごろ)に食べると、子孫繁栄、無病息災の祈願になるそうです。
西日本では、初亥の日に「亥の子祭り」、東日本では「十日夜(とおかんや)」として、
収穫祭が行われるそうですね。
東京では余り見かけませんが、
皆様のお住まいのほうでは、この行事は行われていますか。
さて、シンプルファッションを旨とする江戸っ子が好んだ着物は無地。
上方のほうでは凝った大柄がはやっていたようですが、江戸はシンプルが好み。
無地の次に好まれたのが縞。
「縞を着こなせれば一人前」と言われるぐらい、たしかに着こなしが難しい。
その次が小紋。
江戸小紋と呼ばれて、中でも鮫小紋(さめこもん)が一番好まれました。
遠目では無地に見えて、近寄ると柄のわかる小紋柄がよいとされたのです。
無地にはない、しっとりとしたやわらかい独特の美しさがありますね。
粋を楽しんだ江戸っ子たち。
その心意気、今日もいただきです。
「炉開き」と江戸娘の決め色
今日は炉開きの日で、茶の湯では、風炉から炉のしつらえに替わる日です。
11月初旬の立冬の頃に行われます。
温かいたっぷりとしたお湯が入った鉄釜から湯気がたちます。
お客様に身も心もほんわかと暖かくなっていただけるような、そんなおもてなしです。
静かで、湯気の音だけがする茶室に入ると、身も心もぴりっとしますね。
江戸っ子のセンスのコツの一つは、全体を地味にまとめて、ぴりっと決め色を使うことだったそうです。
全体を華やかに見せる上方とは異なり、赤や紫などの色を袖口や襟にちょっとだけ見せて、地味な中にもピリリとスパイスを利かせました。
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江戸の人は「けはい」を感じていた
江戸の10月亥の日(現11月)には、武家や町家では「炬燵開き」をしました。
江戸の暖房は櫓を立てた堀り炬燵と、移動のできる置き炬燵があったそうです。
今よりも寒い冬を過ごしたというのですから、炬燵だけと風がヒューヒュー入る木造の家では、さぞ寒さ対策も大変だったでしょう。
話は変わりますが、
現代の私たちは、目に見えるもの、触れるものを第一次的に信じています。
でも、この時代の人たちは「けはい」というものを大事にしていたようです。
最近、電車の中で化粧をする若い女性が増えていますね。
先日、電車に乗ったとき、左隣と目の前で、偶然2人の若い女性がお化粧をしている姿を目撃しました。
2人とも髪が長く、雰囲気が似ていて、私から見ると、念入りにお化粧をする必要がないように見えました。
まだ続くのかというぐらい、次から次へとバッグから道具を出して手を動かしています。何駅過ぎたでしょう。
周りの視線など一向に気にするような気配がないのです。
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