リンカーンに会えた日本人ヒコの生涯vol.3「新聞の父」
おはようございます。
ジョセフ・ヒコの生涯のお話。今日はいよいよ完結編になります。
友人の真下 吉弘さんのご好意によって、詳細な事実をこうしてお話できることに
感謝しながら・・・。
ヒコはアメリカでサンダース家の養子として迎えられ、みんなに可愛がられながら
学業に専心していきました。
ところが、サンダースの銀行の倒産があり、彼は学業を断念し、海軍少佐で航路測量艦の艦長ブルックの乗務員として採用され、そこで勤めました。
海洋学のパイオニアとして太平洋や日本海などの調査に乗り出します。
その後勝海舟が咸臨丸で太平洋横断する際に、ブルック船長を水先案内人として紹介したのがヒコでした。
この時の功績で、ヒコは幕府から短刀を贈られています。
その後、ヒコは、ハリスのアメリカ領事館の通訳に従事しました。
当時は日本もアメリカも、オランダ語に言葉を翻訳してからの意思疎通をしていましたので、
とても話が通じにくく、時間がものすごくかかっていました。
こんな時、流暢な日本語と英語を話すヒコは、華やかな外交舞台で活躍することになります。
ヒコの誠実で、優しい人柄は日本人からも、アメリカ人からも信頼を得ていたといいます。
ヒコは、どこでも好感が持たれ、愛されていたのですね。
「稀にみる人物でもあったのだと思います」と、真下さんはおっしゃっています。
前回も書きましたように、
日本は尊王攘夷の浪士たちの動きによって外国人には不穏な状況でした。
そんな状況でしたので、ヒコは、アメリカの友人知人からアメリカ国籍の取得を薦められ、
日本で初めてアメリカに帰化した日本人「ジョセフ・ヒコ」となっていたのでした。
ヒコは、身の危険にさらされていたので辞職をします。
そして、横浜にある外国人居留地で商社を開いて貿易商となりました。
折しも、リンカーン大統領のゲティスバーグでの名演説(文久3年、1863.11.19)、
「人民の人民による人民のための政治」の反響を載せた「ニューヨークタイムズ」を目にします。
彼は国民に即情報や朗報を知らしめる新聞の威力に感動し、日本での新聞発行に挑戦します。
「海外新聞」というものを発行していきます。
日本の知識人に多大な影響を与えました。
これが現在の新聞の原型だといわれています。
後に彼は「新聞の父」と呼ばれるようになりました。
あのリンカーン大統領との握手の会見の後、ヒコの心の中には、日本文化とアメリカ文化の架け橋になるという強い決意を抱いたのです。
彼はそれを実行していったのですね。
歴史上の表舞台に登場してはいませんが、桂小五郎、伊藤博文、井上薫の影の力となったそうです。
グラバー邸では坂本竜馬とも一緒に働き、後の戦中八策に多大な影響を及ぼしたことも推定されます。
アメリカに帰化したとはいえ、偉大な日本人として忘れてはならない人物だったのです。
同時代の漂流者としてアメリカに渡り、アメリカで教育を受け日本のために尽力した、
ジョン万次郎(中浜万次郎)は、歴史上知られていますね。
万次郎は日本国籍ゆえに有名になったともいわれています。
ほんの6歳しか違わない二人ですが、日米の架け橋となって尽くし、
時代の大きな波の中に運命を預けるかのように、
その人生を全うしていったことには変わりありません。
今彼は青山の外国人墓地で眠っています。
ごく普通の少年が、江戸の寺子屋教育で心を養い、
アメリカでリンカーン大統領と出会い、人生の決断をして、
日本の不穏な動乱の時代の中にあっても、
祖国を愛して生涯を全うした、
その一人の日本人ジョセフ・ヒコを、
現代の私たちは忘れてはならないのだと思います。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。
日本人の気骨を全うしたジョセフ・ヒコの生涯を知る機会に巡り会えうことができて、私は幸せです。
感謝しています。
今まで綴ってきた記事はこちらです。
どうぞご覧くださいませ。
http://derivejapan.com/blog/hikozou/
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko1/
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko2/
リンカーンに会えた日本人ヒコの生涯vol.2「日米の架け橋に」
おはようございます。
ジョセフ・ヒコの生涯のお話。続きを記していきます。
今日も友人の真下 吉弘さんのご好意によって、詳細な事実をこうしてお話できることに感謝します。
この前の記事二つはこちらになります。
http://derivejapan.com/blog/hikozou/
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko1/
播磨の少年ヒコは13歳の時に江戸見物の帰り、栄力丸で故郷へ戻る途中、
遠州灘で暴風雨に巻き込まれて遭難したのです。
52日間の太平洋漂流後、彼ら17名はアメリカのサンフランシスコに到着することになりました。
江戸見物の帰りに、漂流してアメリカに行こうとは・・運命ですよね。
遭難船の船長は、アメリカに行く途中のハワイで病没しました。
彼らは、朝の日の出とともに起きて、全員で太陽に向かって柏手を打ってお天道様を拝したということです。
その姿に救難船の全員が畏敬の念をもって見ていたと、
ヒコは自叙伝に書き記しています。
さすが、日本の先人たちは太陽に手を合わせ、それを見る人にも感動を与えていた
のですね。
サンフランシスコに上陸したのは12名でした。
10名は上陸後半年ぐらいして中国経由で日本に帰りましたが、
当時の日本の鎖国の厳しさから半数は中国にとどまり、5名ほどが日本に帰国できました。
中国に滞在したうち3名は行方不明となったようです。どの人も運命に翻弄されたような感じですね・・。
アメリカに残ったのは、ヒコとあと一人です。
この人はペリー提督の軍艦で帰国し日本に引き渡されるはずでしたが、
鎖国の厳しさを聞き知っているので、本人は体を震わして上陸したくないと哀訴したために、
アメリカに連れ戻され、コックとして一生涯アメリカで暮らすことになったそうです。
ヒコはアメリカ文化を吸収したいという向学心に燃えていました。
時は、ペリー黒船来航直前。
日本人のヒコらを国交開始のきっかけに利用したいと考えていたアメリカの意向に
添いたくないと考えたヒコは、またアメリカに戻ることを決意しました。
丁度この頃、税関長であり、貿易商のサンダースにヒコは見い出されました。
サンダース家の人々に可愛がられ、高等教育を受けて、ヒコ自身も大きく成長していきました。彼の誠実さ、真面目さ、勤勉さ、どれも日本人らしいよさですね。
サンダースは秘書としてヒコを伴って財界や政界の要人と会っていきました。
そんな折に、ピアス大統領、ブキャナン大統領やリンカーン大統領に正式に紹介されて、会うことができました。
日本人としてアメリカ大統領に会見できたのは、ヒコが初めてでした。
中でも、リンカーン大統領と会見した時、彼の優しさと人としての魅力、大きさに触れ、生涯忘れえぬ人となったのです。
リンカーンは、大きな手を差し伸べて、ヒコと握手を交わし、日本のことをいろいろと尋ねたそうです。
そして、彼は日本とアメリカの架け橋になろうと決意しました。
それから3年後、リンカーンは帰らぬ人となってしまいます。
彼の落胆はいかばかりだったでしょうか・・・。
日本は尊王攘夷で揺れている時代でした。
ヒコはアメリカに帰化していましたから、外国人とみなされ、
日本で横浜の領事館で通訳として従事していましたので、命の危険にもさらされました。
この続きは、また次回にしますね。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
佳き一日をお過ごしくださいね。
リンカーンに会えた日本人ヒコの生涯vol.1「運命の転換」
おはようございます。
日本が鎖国の時代。
その時代、寺子屋教育を受けた一人の若者が、
将来、大国アメリカと日本との文化の架け橋になろうとは。
だれが想像したでしょう。
「人民の人民による人民のための政治」を掲げ、
「奴隷解放の父」と呼ばれた
アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーン。
リンカーンが凶弾で倒れ逝ってしまったとき、心から深く悲しんでいた
唯一の日本人がいました。
彼の名前はジョセフ・ヒコ。
詳しくはこちらをご覧くださいね。
http://derivejapan.com/blog/hikozou/
友人の真下 吉弘さんが、このジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)について
詳しく調べてくださいましたので、記していきますね。
真下さん、ありがとうございました。
アメリカ名ジョセフ・ヒコ、日本名濱田彦蔵、幼名彦太郎は、
1837年現在の兵庫県播磨町古宮の百姓の子として生まれました。
13歳の時、17人の仲間と共に52日間の漂流を続け、
中国からアメリカに向かう商船オークランド号に救助されたのです。
ここから彼の運命の大転換が始まりました。
当時13歳の彦太郎の母の再婚先の商家で数年間寺子屋に通って、
母を喜ばせることでもあり、そこで懸命に勉強したそうです。
この寺子屋で学んだ日本での基礎知識がアメリカ文化を吸収する力になっていたと、
想像されます。
ヒコはその誠実さ、真面目さから、救助された船の船長や船員から特別に可愛がられ、
髷を切って、洋服を新調してもらい西洋人の姿になりました。
上陸したサンフランシスコでは13人の日本人を送り返しました。
彼はそのままその地に残ります。
そのころ、日本に開国を迫る新聞論調が頻繁に出されていました。
事実1年後、ペリー提督が大統領の親書を携えて開国を迫っていたのです。
ヒコ達は、滞在したサンフランシスコの社交界で日本の民族衣装を着て、
舞踏会にも頻繁に駆り出されて、大もてだったそうです。
中でも、ヒコはその聡明さと日本人らしさで引っ張りだこでした。
ヒコの、誠実で真面目、聡明であり、気骨のあるところは、
日本人の持つ素晴らしい特質を十分発揮しているように思います。
日本の民族衣装である着物を着て、アメリカの社交界でも人気を博したのですね。
ニューファッションのように、アメリカ人には見えたのでしょうか。
この続きはまた次に書きますね。
本日も最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。
今日も幸多き一日になりますように。
写真は宮城の郷里の草花に登場してもらいました。☆
リンカーンに会えた日本人浜田彦蔵
今日は、エイブラハム・リンカーンの命日(慶応元年・1865年4月15日)です。
第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン。
「人民の人民による人民のための政治」という言葉は有名ですね。
南北戦争の激戦地ゲディスバーグで戦没者をとむらった国立墓地の開所式での言葉です。
これは民主主義の本瑞として、フランス共和国憲法にもその原理として採用されたということです。
リンカーンに会ったという日本人で、ただ一人、リンカーンの死を深く悼んでいた人がいたそうです。
その名は、横浜の貿易商ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)。
彼は、播磨生まれで海上で遭難してアメリカ船に救われ、少年期をアメリカで過ごしました。
帰化して、最初の日系人となり、安政6年(1859)に帰国してからは、アメリカ領事館の通訳として活躍したそうです。やがて横浜に貿易商社を開きました。
1861年、また渡米して、62年3月、リンカーンと会見しています。
日本人としては唯一のリンカーンとの会見でした。
彼がシーワード長官の紹介でリンカーンに会ったとき、
リンカーンは大きな手を差し伸べて、「日本のような遠いところからよく来てくれました」と言ってくれたそうです。どんなにか嬉しかったことでしょうね。
彼はリンカーンのことを
「きわめてまじめで親切な人間で、接する人の誰にも愛されて、とくに自分の一統や友人からは、ひどく愛されていたとのことである。」と、書き記しています。
リンカーンに会ったという唯一の日本人ジョセフ・ヒコのお話、いかがでしたか。
3年ほど前のスピルバーグ監督の映画『リンカーン』はご覧になりましたか。
南北戦争の最中、奴隷制の廃止と戦争の終結に挑む重厚感のある映画でした。
エイブラハム・リンカーン扮するダニエル・デイ=ルイスがまさに適役で素敵でした。
自分の死を覚悟しての改革。既成概念や固定概念を打破していくことは困難が伴います。
アメリカも日本も平和な社会になっていくことを望みますね。
本日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいね。
浜田彦蔵の生涯については、こちらをご覧くださいませ。
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko1/
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko2/
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko3/
江戸の女子力1「お転婆娘」
「清水の舞台から飛び降りる」
清水寺の高い崖に張り出して作られた舞台、
そこから飛び降りるほど、
必死の覚悟で実行するという意味で使われている言葉ですが、
江戸時代には、実際に恋の成就のために飛び降りた娘たちがいました。
江戸中期の記録では、飛び降りた234人の3割が女性だったとのこと。
舞台の下には木が鬱蒼と茂っていたので、
8〜9割は怪我を負いつつも無事だったといいます。
この浮世絵でも、右下に桜の木が見えますね。
娘たちのけなげなまでの勇気には、
ハラハラドキドキさせられますね。
この娘の恋が成就しますように〜〜!
お転婆な娘の一途さは、今も昔も一緒かもしれませんね。
写真:鈴木春信「清水の舞台から降りる美人」(1765年)
「駆けつけ三杯」のこころを〜大震災の日を再び迎えて〜
昨日の3月10日は東京大空襲の日でした。
歴史を振り返れば、昭和20年3月10日未明、
東京は焼夷弾の猛烈な雨に打たれました。
殊に、江東地区は334機に及ぶB29の無差別の猛攻撃を受け、
約2時間半の間に7万余人もの人々が亡くなりました。
川はさながら血の海、死体で溢れていたと、聞いたことがあります。
それ以降日本の大都市も次々に被爆し、原爆で亡くなった人を除いた死者は25万
6000人、被災者は920万人、全焼家屋221万戸に及んだといいます。
まさに地獄絵巻のようだったのですね。
.
.
.
江戸時代にも、江戸の町は火事、地震、洪水、飢饉などの大災害や天災に遭遇しました。
「明暦の大火(めいれきのたいか)」は、江戸の町の三分の二を焼き尽くした
世界史上で三本の指に入る大火事でした。
この大火事もまさに地獄絵さながらのようだったといわれています。
幕末、ペリーの黒船来航後の安政江戸大地震(1855年)も歴史に残る大天災でした。
戦争も、大地震や大火事も一夜にして、国の運命も人の人生をも一変させてしまうものですね。
今日は3月11日。
東日本大震災からはや4年がたちました。
復興や原発の対策について、もどかしさを感じている人も多いのではないでしょうか。
.
.
江戸の町では、それまでの教訓を活かして、幕府も大店も寺社も士民が一丸となって災害に立ち向かい、
よりよい町づくりをしていくという自治の精神も生まれていきました。
「困ったときはお互いさま」を合言葉として、
「自分にできることはどんなに小さいことでもやろう」という気概も育っていったのです。
自分が人のお役に立っている、
自分も人に生かされているということを実感として生きたのだと思うのです。
私たちも東日本大震災後、みんな本当の幸せとは何だろうと、
真剣に考えるようになりました。
.
.
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は有名ですね。
それもそのはず。三年に一回は火事で焼け出されるという状況だったようです。
頻繁に起こる火事のために、江戸の商家の火事対策はよくされていたそうです。
火が出て見舞客が駆けつけてくると、酒食を用意していおいて、それをふるまったのです。
昨年も書きましたが、
「かけつけ三杯」という言葉は、この江戸の火事場の習慣から生まれた言葉です。
人は追い詰められると究極の選択を迫られます。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、『蜘蛛の糸』のカンダタのように、
自分だけが助かりたいと思うのか、それとも共に生きる道を必死で探そうとするのか。
私たち日本の江戸の先人たちは、災害に遭遇した時、助け合うという行動を選択したのです。
.
「かけつけ三杯」
この言葉、今では宴会に遅れてきた人に、罰として続けざまにお酒を三杯飲ませるという意味で使われていますが、江戸の火事に由来があったのですね。
大火事にみまわれても、心の余裕を失わずに人々のお役に立とうとした心意気。
そして、助け合いや互助精神。大変な状況の中で、互いに命を尊んで生きて、生きて、生き抜いた人たち。
そんな中での「かけつけ三杯」という相手をねぎらおうとする心意気には、もう脱帽です。
火事場の馬鹿力とは、本当はそういうものなのでしょう。
どんな災害に見舞われても不死鳥のように立ち直ってきた日本は、
先人たちの助け合いの精神が実は大きかったのだと、
痛感します。
.
まずは自らが手を差し伸べようではないか。
その手を掴んでくれる人が必ず現れるのだから。
そして、必ず共に立ち直れると信じていこう。
.
ゆったり江戸時間
花の雲 鐘は上野か浅草か
松尾芭蕉が深川の芭蕉庵で聞いた時の鐘は、上野の寛永寺の鐘の音だったのか、
それとも浅草の浅草寺の鐘の音だったのか。
人々が時を知るのは、お寺の鐘からだったのです。
現代人は時を刻む時計をいつも手がかりに、時間を気にして暮らしています。
時計を見ながら、いつもいらついています。
江戸時代は、みな時計なんて持っていませんでした。
時の鐘で時刻を知ったのです。
それと、太陽、月の運行で今は何時(なんどき)だと、自分の身体で時を知って
いました。
今から150年ほど前まで、日本人は自分の五感で時間をとらえていたのですね。
そんな感覚を持っていたことに驚くのと同時に、現代人はその感覚を失ってしまったことに、ショックを受けます。
*******
一時(いっとき)は2時間。
彼女とデートするとき、「深川のお不動様の前で、暮れ六つに会おう」と約束したとすれば、二時間は待っているよというのが普通のことだったのです。
半時は1時間。小半時は30分。
小さい時間の単位が30分ですから、今のように1分、1秒を争うような慌ただしさやプレッシャーはなかったのでしょう。
ゆったりと時間の流れを楽しんでいたように思います。
人生50年の時代に、時間がないなんて焦ることなく、ゆったり構えることができる人生の価値観って、どんなだったのでしょう。
そこに見えてくるのは、温もりや暖かさです。笑顔だったり、涙だったり。
現代人はこんなに長生きしているのだから、
もっともっと余裕をもってゆったりとした生き方ができるんじゃないかと思います。
一体何に追われ、何を追い求めているのか、今までの価値観の見直しをするべき時代
にきたのではないでしょうか。
江戸庶民のように、身も心もダイエット
老子の言葉に、「足るを知る者は富む」という言葉があります。
人生は分相応のところで満足していれば、心豊かに暮らせるということをいっているのでしょう。
江戸庶民は、美味しいものを食べたり、楽しいことをしたりすることに幸せを見い出していたようです。
「宵越しの金はもたねえ」といわれるように、お金を使うことやお金をためることに重きをおくのではなく、その日その日の幸せに心ときめかせて生きていたのですね。
頻発する火事で、家も家財道具も愛する人をも失う経験をしてきたからこそ、その日その日を大事に生きることを大切にしたのでしょう。
江戸庶民の生きるスタンスには三つあります。
余計なものは持たないこと。
くよくよと思い悩まないこと。明日は明日の風が吹く。
出世を望まないこと。出世すれば忙しくなって家族との時間も取れなくなって
しまう。
*******
人生は分相応。
そこから見ると、現代人は多くのことに気を向けすぎています。
気が付いてみれば、体も心も疲れきった状態になっています。
身も心もダイエット。
心身の断捨離。
やっぱりシンプルな生き方に向かっていけば、日々の何げない喜びがより鮮明に幸せに見えてくるのではないでしょうか。
秋茄子論争
「秋茄子は嫁に食わすな」という諺がありますね。
これはいろいろな説があるそうです。
この背後には、嫁と姑のある意味で二人の仲の永遠の課題が潜んでいるのでしょうね。
*********
秋茄子が美味しい季節。
秋茄子は、実がしまって美味しいとされていますね。
日本の四季の中で育まれる産物は、季節の巡りの中で味も実も変化させていきます。
走りや旬だけが美味とは限りません。
.
初物買いにこだわった江戸時代。
江戸っ子は女房を質に入れてまでも食べたいと、
「初鰹」への熱狂ぶりには目を見張るものがあります。
実際の美味しさと言えば、立夏の頃よりも脂がのって美味しいのは、
「戻り鰹」と呼ばれる秋です。
**********
さて、秋茄子。その美味しい秋茄子を嫁に食わすな。
美味しいから、嫁なんぞに食わせたくないのか。
いや、これは体を冷やす。
秋茄子には種が少ない。子種がなくなるから、縁起が悪い。
だから、子孫繁栄のためにも嫁の身体をいたわって大事にせよ。
.
小林一茶も、その論議に加わって、
「月さすや 嫁に食わすな大茄子(なすび)」と詠む。
巷では、嫁に秋茄子を食わすなと言ってるが、
秋茄子は実に美味しいから、体を冷やさぬように食べ過ぎには注意せよ。
一茶がこの歌を詠んだのは、万人に対するいたわりの思いだったのだろうと、
私は解釈したいのですが、いかがでしょうか。
嫁と姑の仲については、賛否両論でしょうか・・。
.
己を知り、身の程をわきまえること
江戸の庶民が物事を考える根底にしていた言葉に、「結界わきまえ」という言葉があります。これは、己を知り、身のほどをわきまえること。
結界はもともと仏教用語ですが、領域を区切る境界線という意味で、自分の立場や力量をきちんと把握し、見せかけのことをしてはならないという戒めです。
相手のことも理解し認めることができるので、
お互いの領分は侵さないということですね。
自分のほうが明らかに正しくて、相手を理屈で言い負かせることができたとしても、相手には屈辱と報復の心が残ってしまう。
「結界わきまえ」が言う分相応、足るを知ることは、決して自分を小さくすることではなく、自分の我を離れ、相手に対する細やかな心遣いをすることなのです。
それは、お互いが気持ちのよい生き方をするということですね。