江戸の人が熱狂した富士講
おはようございます。
昨日7月1日は「山開きの日」でしたね。
「山開き」というと、現代はスポーツとしての登山の開始時を表わすようになりました。
「山開き」は、入山(特に霊山)が許される最初の日です。
富士山、木曽御岳、出羽月山などの霊山は、修験道の霊場だったために、
かつては民間人の立ち入りを禁じていたのですね。
ただし、夏の一定期間だけ、信仰行事として民間人の入山が許されたと言います。
富士山が世界文化遺産に登録され、
なお一層一度は登ってみたいと思いますよね。
富士山を世界遺産にするかどうかの決め手の中で、
富士山を信仰の対象とする「富士講」が大きく評価されました。
江戸中期に長谷川角行(かくぎょう)という、
人穴の修験者によって始まったとされるのが「富士講」。
江戸中心に広まりました。
その教えを発展させて、富士講の基礎を作ったのは、
食行身禄(じきぎょうみろく)だと言われています。
江戸後期には「江戸八百八町に八百八講」といわれるほど、
富士講は江戸庶民の人気を集めたのです。
本日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
心穏やかな一日になりますように。
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“和のたしな美塾” 講座
7月7日浴衣のたしな美
7月24日江戸女性の美学
男性はいなせに、女性はあでやかに。
黒船ペリーが見た日本女性
おはようございます。
日本が鎖国を経て、開国間もない頃、外国人から日本女性がどのように見えたのでしょうか。
ペリーが黒船に乗って浦賀沖にやってきた時、こんなことを言っています。
ペリーは『日本遠征記』の中で
「日本の社会には、他の東洋諸国民にまさる日本人民の美点を明らかにしている一特質がある。
それは女が伴侶として認められていて、単なる奴隷として待遇されてはいないことである。」
と言っています。
女性の地位も比較的高いとの尊敬を受け、しかも、謙譲の美徳も感じられると、
なかなかの評判だったようです。
でも、気になった点として、女性の「おはぐろ」が挙げられました。
女性は婚約後おはぐろで歯を黒く染めたのですね。
どうもペリーは、未来の花婿も花嫁の黒い歯を見て嫌になるのではと、
日本人男性への同情の意を表していたようです。
日本女性の立ち振る舞い、外国人から見ても素晴らしかったようです。
日本の女性の皆様、これからも自信を持っていきましょう。
ますますご自分を磨いていってくださいね。
男性の皆様、これからも女性を支えてくださいね。
女性は男性の協力なくしては、輝くことができないのですから。
7月7日(月)の浴衣のたしな美では、着物の基本となる浴衣を通して、
日常のたしな美を考えていきます。
7月24日(木)の”和のたしな美塾”は、
江戸女性のお洒落を見ながら、彼らの美学をさぐります。
そして、現代女性に活かす美しさを考えていきます。
男性にも女性にも、役に立つと思いますよ。
本日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
心穏やかな一日になりますように。
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“和のたしな美塾” 講座
7月7日浴衣のたしな美
7月24日江戸女性の美学
男性はいなせに、女性はあでやかに。
詳しくはこちらをご覧ください。
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信長の驚き
おはようございます。
6月22日放映のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』はご覧になりましたか。
信長に拝謁した宣教師が黒人を連れてきました。
さすがの信長も、その若者の姿を見て大変驚いていました。
どこから来たのかと、尋ねると、
黒人の青年は、見せられた地球儀から、アフリカの一部を指差しました。
信長は世界は驚きに満ちあふれている。
世界をこの目で見てみたいと、大きな夢を抱きます。
ヨーロッパと日本の交通が開かれたのは、天文12年(1543)に
種子島にポルトガル人が漂流してからのことです。
日本に初めて黒人が来たのは、やはりその後だったそうです。
ポルトガル人が黒人を奴隷として使っていたからなのですね。
日本人が初めて黒人を見たとき、
姿かたちだけではなく、墨を塗ったような肌の色は、
日本人にとっては到底信じがたかったようです。
わざわざ黒人を見物するためにかなり遠くの地方からやってきて、
3日も4日もそのうわさで持ち切りだったと、
天文15年、薩摩の山川港に来航したジョルジ・アルワレスが報告しています。
その噂を聞いた信長も、黒人をバリニアニ人から黒人を譲り受け、従者の列にくわえていったそうです。(『信長公記』)
信長も、その肌の色が生まれつきのものだといわれても信じることができなかったようです。
上半身を裸にして何度も洗ったところ、黒い漆を塗ったようになってしまったとか。
あの信長さえもそれまでに目にしたことがないものへの驚きを読み取ることができます。
今まで経験したことのないことが起こった場合、
どう対処するか、どう反応するか、
なかなかこの例からも興味深いものがありますね。
そういうこともあろうと、受容するか、
世にも奇妙なことと否定的にとらえるか、
捉え方によって人生は大きく変わってきますね。
そういうこともありだと、大きな度量を持っていきたいものです。
本日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
微笑みが溢れる一日になりますように。
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“和のたしな美塾” 講座
7月7日は浴衣のたしな美です。
男性はいなせに、女性はあでやかに。
若々しく見えるポーズとメイク、
和食のテーブルマナーなどを行います。
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「おじゃんになる」も江戸生まれ
おはようございます。
昨日は「オシャカになる」の意外な語源を見てみましたが、
今日も江戸で生まれた言葉を見てみましょう。
「おじゃんになる」
聞いたことがありますか。
火事と喧嘩は江戸の華。
江戸は坂東の空っ風にあおられて、何度も火事になったところです。
火の手が上がると、真っ先にかけつけるのは火消したち。
すぐさまその火が燃えている建物の屋根に上って、纏(まとい)を立てます。
その炎が類焼しないように、火消しの男たちは命をかけて火を食い止めます。
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殊に纏い持ちは組一番の美形男子が選ばれます。
火消しの頭もこの纏持ちも、女性の憧れの的でした。
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町の自身番には火の見櫓(やぐら)があって、火事を発見すると半鐘を鳴らして、人々に知らせます。
その火の危険度によって鳴らし方が異なったそうです。
鎮火のときには「ジャン、ジャン」と、二度鳴らすのが決まりでした。
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火事はおさまったよという合図が、略されて「おじゃんだ」、
これで火がおさまった、これでおしまいになったという意味になりました。
現在では、物事がだめになったとか、中途でこの計画はだめになったという意味に転じていますね。
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このように火事の時の半鐘の音から生まれた言葉が「おじゃんになる」です。
ところで、江戸の女性たちはみんな火消したちに憧れていました。
鎮火をして、その場を引き上げて行く火消したちの煤だらけの姿、頭巾や被りものをとったときのその精悍な顔立ちにほれぼれしたそうです。
瞳をキラキラと輝かせて、見入ったのでしょうね。
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本日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も元気いっぱいの一日になりますように。
「オシャカになる」って江戸っ子の駄洒落から生まれた
おはようございます。
昨日の4月8日は、各宗寺院で花祭りが行われたましたね。
お釈迦様のお誕生日は、紀元前463年。
性はゴータマ、名はシッタルダ。
ネパール国のタライ地方にシャカ族王子として生まれました。
お釈迦様が生まれたとき、天から龍が降りてきて、水を注ぎかけて洗い清めたという故事から、
花祭りには釈迦像に水や甘茶を注ぎかけるのだそうです。
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こんな言葉を聞いたことはありますか。
「おしゃかになっちゃったあ」
テレビの刑事ドラマで刑事が、被害者のことを「ホトケになる」とか
「おしゃかになる」と言うのも聞いたことがありますよね。
「おしゃかになる」という語源にはこんな説があります。
不良品を作ってしまったとき、
物事に失敗したとき、勝負事に負けて無一物になったとき
などに使う言葉です。
これは、鋳物職人がお地蔵様を作っていたところ、どこを間違えたのか、
お釈迦様を鋳てしまったというところから出てきた言葉だという説があります。
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また、この言葉は、金物細工の職人が仕事に失敗した話から出ているという説があるのです。
昔、金物細工の職人が金属を溶接しようとして、火が強すぎて失敗しました。
そこで「火が強かった」を江戸なまりで「シガツヨカッタ」、
つまり「四月八日だ」としてしゃれたのです。
丁度この日がお釈迦様の誕生日だったので、
不良品を作ることを「おしゃかになった」といったというのです。
さすが駄洒落の大好きな江戸っ子らしい発想ですね。
本日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も幸せいっぱいの一日になりますように。
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結城市「つむぎの館」で糸くくりで遊ぶ
かけつけ三杯〜火事と喧嘩は江戸の花
おはようございます。
木蓮の 落ちくだけあり 寂光土 (川端茅舎)
はらはらと、白い木蓮の花びらが散っていくように、亡くなった方々も心穏やかな浄土に逝かれますように。
そういう思いが込められた句でしょうか。
江戸時代、江戸の町は火事、地震、洪水、飢饉などの大災害や天災に遭遇しました。
地震といえば、幕末、ペリーの黒船来航後の安政江戸大地震(1855年)が挙げられます。
更に、冬場の坂東の空っ風にあおられて何度も火災にみまわれました。
特に大きな火事と言えば、ロンドン大火やローマ大火と並び世界三大大火の一つ、
明暦の大火(めいれきのたいか・1657年)が挙げられます。
大地震も大火事も一夜にして人生を一変させてしまうものです。
東日本大震災からはや三年。
復興や原発の対策について、もどかしさを感じている人も多いのではないでしょうか。
江戸の町では、その教訓を活かして、幕府も大店も寺社も士民が一丸となって災害に立ち向かい、
よりよい町づくりをしていくという自治の精神も生まれていきました。
「困ったときはお互いさま」を合言葉として、
「自分にできることはどんなに小さいことでもやろう」という気概も育っていったのです。
自分が人のお役に立っている、自分も人に生かされているということを実感として生きたのだと思うのです。
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉は有名ですね。
それもそのはず。三年に一回は火事で焼け出されるという状況だったようです。
頻繁に起こる火事のために、江戸の商家の火事対策はよくされていたそうです。
火が出て見舞客が駆けつけてくると、酒食を用意しておいて、それをふるまったのです。
「かけつけ三杯」という言葉は、この江戸の火事場の習慣から生まれた言葉です。
「かけつけ三杯」
この言葉、今では宴会に遅れてきた人に、罰として続けざまにお酒を三杯飲ませるという意味で使われていますが、江戸の火事に由来があったのですね。
大火事にみまわれても、心の余裕を失わずに人々のお役に立とうとした心意気。
そして、助け合いや互助精神。大変な状況の中で、互いに命を尊んで生きて、生きて、生き抜いた。
火事場の馬鹿力とは、本当はそういうものなのでしょう。
本日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
被災地で暮らす方々の幸せを祈りながら、今日は過ごしたい思います。
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女性のつつましさは江戸から学ぶ
おはようございます。
梅が香に のつと日の出る 山路かな (松尾芭蕉)
春浅き 水を渡るや 鷺一つ (河東碧梧桐)
立春が過ぎても、まだまだ寒い日が続く今日この頃。
降雪もあるし、風も強い。
樹木の膚や芽吹きに春の息吹が感じられますね。
江戸の庶民の生活はどこか現代にも似ています。
お見合いよりも恋愛結婚が多かったのです。
女性は家庭にあっては「かかあ」として座し、
商売でも勘やマネージメントに才を発揮していました。
女性は将来を担う子どもを生み育てるというものという意識が社会にあって、主婦は重きをおかれていました。
でも、彼女たちは強いだけではなく「つつましさ」を持っていました。
男性は思慮深く、女性はつつましく、が求められたようです。
講などの寄り合いがあると、女性は男性より先に来ていたとしても、一、二列離れた
上がり框(かまち)に近いところに履き物をぬいだそうです。
女性は男性を立てるという行為でもあったのでしょうし、上がり框(かまち)を大きくまたぐことは、はしたないというたしなみがあったのですね。
男性は男性としての役割、女性は女性としても役割があります。
そこをきちっと押さえていたのが江戸の人々だったのです。
江戸って、もしかしたら、ある意味で今よりも進んでいたかもしれませんね。
今日もお読みくださいまして、ありがとうございます。
佳き一日をお過ごしくださいませ。
江戸の女性の生き方についての
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江戸の男の中の男とは
よく「男の中の男」という言い方をしますね。
若いお嬢さんだけではなくて、男も惚れる男のことです。
江戸の人たちが選んだ「男の中の男」には3タイプありました。
(昨日のちゃんこ鍋の)力士、火消しの頭、与力(よりき)の三職です。
与力というのは、町奉行の配下で、同心(どうしん・警察官)の上役です。
今でこそ、女性も相撲見物ができますが、江戸時代、女性は相撲見物ができませんでした。
明治になってようやく女性も見物できるようになったのです。
女性が土俵にあがっていはいけないというのは、その名残ともいわれています。
相撲は屋外での晴天興行だったそうです。
雨が降れば雨天順延でした。
江戸っ子を熱狂させた相撲には、どんな魅力があったのでしょう。
力士が「大関」に昇進すると、部屋から引き抜かれて、大名のお抱えになる力士もいたのです。
侍の身分を頂戴して、禄(給料)をもらいます。
侍になるということは、日本差しを許されて、家来も与えられるということです。
大出世ですね。
大名を力士を抱えたとなると、自分の面子がかかってきます。
それこそ、土俵上は真剣勝負となります。
その熱狂ぶりも半端じゃなかったのですね。
刀を差している行司もいました。
それは対戦する力士のどちらも大名のお抱えの場合だと、自分が間違った判定を下したら、大名の名誉にかかわるということで、
間違えたら切腹して謝るという意味で刀を差していたというから、
観客も判定者も真剣勝負だったのですね。
男も惚れる男の中の男、力士。
いかがでしたか。
やはり大関や横綱は、今でもみんなの憧れ。
品格もある力士には憧れちゃいますね。
舞台は江戸〜小冊子プレゼント〜
皆様、おはようございます。
お正月休みをいかがお過ごしでしょうか。
のんびりとお過ごしくださいね。
いつも温かいお心をありがとうございます。
昨年投稿したFacebookの記事を基に小冊子を作成しています。
もうすぐ完成しますので、もうしばらくお待ちくださいね。
Facebookでは書けなかったことをあれこれとまとめています。
もちろん、舞台は江戸です。
ご興味ある方はこちらのフォームからご登録くださいね。
http://form.os7.biz/f/c46d98b7/
感謝の思いを込めまして、準備が整い次第、お送りさせていただきます。
江戸の煤払い
仕事納めになって、ゆっくりされている方も多いことでしょう。
今年もお疲れさまでした。
新年に向けて、正月飾りの準備やら大掃除やら、何かと気ぜわくなってきましたね。
江戸時代、江戸城でも12月1日から12日までは大掃除の日。そして、最後の13日に大掃除終了の祝儀をしたそうです。
それにあやかって、江戸中の家々が一斉に13日には「煤(すす)払い」をしました。
大店では煤払いが終わると、祝儀と称して、主人をはじめ番頭、手代など、次々に胴上げをするのが慣例だったようです。
小学校や中学校の時、終業式前日か当日、みんなで大掃除をしたことを思い出します。
「江戸の煤払い」
江戸の初期には12月20日に行うのが定例だったようですが、家光公の忌日にあたるためにそれ以降は13日になったそうです。
煤払いの終了後に胴上げをし合うのですが、その時に「めでためでたの若松様よ。枝も栄えて葉も繁る。おめでたやぁ〜。サッササッササア」と、はやし音頭を歌ったそうです。これは花笠音頭ですよね。
胴上げの後は、みんなで風呂に行って、髪を結いなおして、いつもより早く寝るそうです。
でも、この日ばかりは、夜の点呼(夜遊びの禁止)も大目に見られて、みな大掃除や胴上げであちこち痛む体もなんのそので、夜の街へと繰り出していきました。
この日が過ぎると、あちらこちらで歳の市が始まります。
歳の市ではお正月用品、台所用品、農具などが売られたそうです。
羽子板市もこの歳の市から始まったのです。
準備が整い次第、お送りさせていただきます。