江戸の男性はユーモアのセンスが結婚の条件
江戸庶民の家庭生活はどんな感じだったのでしょうか。
江戸では、男性が家事育児をすることは、当たり前だったようです。
今の若い夫婦のように、どちらか手の空いたほうが家事育児をやっていました。
男性は何か付加価値がないと、嫁に来てもらえなかったのです。
自信のない男性は、駄洒落をいくつか習ってから嫁をもらったとか。
ここは注目すべきところですね。
ひところまで言われていた女性の結婚相手の条件は、高学歴高収入。
江戸庶民の結婚〜バツイチなんて気にしない〜
ふた葉三葉ちりて日くるる紅葉かな (与謝蕪村)
そんなことを感じさせてくれます。
「揉み出るもの」の意味であるといわれています。
自然の厳しさの中から、美しい色が醸し出されてくるのですね。
実際に何回帰ってきても、恥ずかしいことではなかったとか。
結婚届を役所に提出するわけでもなく、1年おきの「人別調べ」(戸籍調査)のときに申し出ればよく、その間に出たり入ったりがあったとしても、それが人別帳に載るわけではありません。
でも、武家の娘はそうはいきません。
また、いったん敷居をまたげば「二夫にまみえず」と、里帰りも厳しく禁じられていたのですね。
もちろん今の時代もまたそれとは異なります。
そんな中で、幸せってなんだろうと、考えてみたいですね。
このように過去をリサーチすることで、固定概念が変わっていきます。
新米と新酒
秋祭り。
稲作の始めと終わりに際し、
春に神様を田におりてくるのをお迎えするのが春祭り、また山に帰るのを送るのが秋祭りです。
田の神様への祈願と報恩の意を表したこの氏神祭りは、
年に2回春2月(または4月)と秋11月に行われていました。
日本人にとって、新米も新酒も意味深く、天からの嬉しい贈り物ものですね。
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江戸時代、日本の中心であった京都から新興都市の江戸へ運送された上等な産物を「下りもの」と呼び、
江戸近郊で作られた産物を「下らないもの」として一段低い立場においたのですね。
上方からは米や酒など上質なものが入ってきて、高値の取引がされました。
一番の人気が「富士見酒」。
富士山を左手に見ながら江戸湊に入ってくる新酒です。
樽の杉の香りと新酒が波でブレンドされて、ほどよい香りとマイルドな風味になって、
産地で飲むより江戸で飲んだほうがずっと美味しいお酒になったのです。
特に最初に到着した樽は大変な高値がついたとか。
秋口から冬にかけて、隅田川河口は大賑わい。船で大渋滞です。
新川に並ぶ酒問屋では、赤い法被の若い衆が、日の丸のついた扇子をかざして、
新しい荷が到着する度に囃し立て、小売の人も利き酒を楽しみ、
どれを買おうか迷っているうちに酔っ払う人も多かったとか。
江戸時代、活気を呈した船での物流。
新酒の時期は、まるでお祭りのようでしたね。
一番人気の富士見酒
皆様、おはようございます。
水上交通が発達していた大都市江戸。
人々の暮らしを支えていた交通機関の屋台骨でした。
現代の高速道路に匹敵しました。
船には、猪牙舟、渡し船、茶船、荷足船、高瀬船などがありました。
ターミナルとなる渡し場には、茶店で賑わい、問屋の蔵なども建ち並び、
河岸周辺は活気を呈していました。
大勢の女性も彩りを添えて、こういう場で働いていたことでしょう。
新米、新酒の時期、秋口から冬にかけては出荷時期のピークを迎え、
隅田川の河口付近は大渋滞です。
上方からは上質なものが入ってきていて、高値の取引がされました。
日本酒は、幕末に至るまで上方からの下りものが圧倒的に多かったそうです。
一番の人気が「富士見酒」。
富士山を左手に見ながら江戸湊に入ってくる新酒です。
特に最初に到着した樽は大変な高値がついたとか。
江戸が経済的に自立するまで経済の発展を支えていたのは、上方出身の商人たちでした。
本店は京都、支店は江戸。
これが上方出身の商人の自負だったのですね。
「江戸店持ち京商人(えどたなもちきょうあきんど)」と呼ばれました。
味覚の秋、日本酒とともに、秋をたっぷりと味わいたいものです。
今日もお元気に行ってらっしゃ〜い。
そぞろ寒し、いい女房になるために
秋深し。
「やや寒」から「そぞろ寒」の感がしてきましたね。
じいんと身のうちに覚える寒さ、膚にも感じる秋の寒さですね。
冬の訪れさえも感じてきますね。
江戸時代の女性の着物は小袖の着流しが普通で、冬になると、重ね着が主流で、コートやジャケットは着なかったようです。
季節による衣替えは現代よりも厳格に、決められた日に衣替えをしていました。
江戸の暦は月の満ち欠けを基準にする旧暦です。
端午の節句(5月5日)と重陽の節句(9月9日)が衣替えの日でした。
9月からは袷(あわせ)を着ます。
冬には、ドテラのように、着物と裏地の間に綿を入れた綿入れを着ていました。
衣替えのシーズンには、この袷に綿入れをしたり、綿を抜いたり、主婦は家族全員の着物を決まった日までに縫い終わっていないといけませんでした。
期日過ぎまで綿入れを子供が着ていると、近所から「できの悪い女房だ」と言われるため、
主婦は大忙しで仕上げたそうです。
江戸時代に生きるなら、女性は裁縫ができることが条件のようです。
その点、現代は重ね着、コートもジャケットもあります。
「君にできることはボタンつけと掃除」という歌詞もどこかにありましたが、
女性は、裁縫ができなくても、オーケーですね。
でも、お母さんの手縫いのバッグや小物を幼稚園や学校に持たせたい。
やはり、女性は裁縫ができるほうが今も魅力的ですね。
今日も温かくしてお出掛けくださいね。
袖振り合うも多生の縁
「束の間つきあい」という言葉があります。
和やかに軽く挨拶を交わして、束の間の、ちょっとした時間も楽しんだのです。
そこには、「袖振り合うも多生の縁」という考え方があって、
これは人間関係を円滑にする方法でもあります。
知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁があっての出会い。
人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならない。
そういう仏教の教えに基づいているのです。
それは「一期一会」の考え方でもありますね。
現代は、電車に乗ればみんなスマホを見ていて、言葉を交わすこともほとんどない時代。
悲しい事件も起こる時代・・・。
いつでもどこでも「一期一会」と思ったら、
江戸の人々が、見知らぬ人と束の間でもお互いに気持ちよく付き合おうと思っていた、
そんな思いが分かるような気がします。
ラッシュ時にそんなことを言ってはいられないかもしれませんが、
思い一つで、
一つ一つの行動や自分にやってくることは、変わってきますね。
素敵に生きましょう!
結界という言葉にこんな意味があります
江戸の庶民が物事を考える根底にしていた言葉に、
こんな言葉がありました。
「結界わきまえ」です。
これは、己を知り、身のほどをわきまえること。
結界はもともと仏教用語ですが、領域を区切る境界線という意味で、自分の立場や力量をきちんと把握し、
見せかけのことをしてはならないという戒めです。
相手のことも理解し認めることができるので、
お互いの領分は侵さないということですね。
少し話が転じますが、
たとえ自分が道理にかなったことを言い、相手が間違ったことを言ったとしても、理屈で責め立てて言い負かすのは良くない。
自分のほうが明らかに正しくて、相手を理屈で言い負かせることができたとしても、相手には屈辱と報復の心が残ってしまう。
また、負けて引き下がってしまうのも良くない。ただ、言い負かせもせず、自分の間違いとも言わず、何事もなく止めるのがよい。
「結界わきまえ」が言う分相応、足るを知ることは、決して自分を小さくすることではなく、
自分の我を離れ、相手に対する細やかな心遣いをすることなのです。
畳一畳で舞う上方舞
三味線音楽No.8
今日は「上方舞」について、ご紹介したいと思います。
京や大阪の上方で発達した舞踊を総称して「上方舞」といいますが、
その地歌の演奏は、長唄や浄瑠璃のように高い台に乗らずに、
平床に毛せんを敷いて、そこで演奏されます。
「上方舞」は、歌詞の内容にいって、次のように分類されます。
「葵の上」「鉄輪」「八島」など。
「愚痴」「ゆかりの月」「雪」など。
手事物としては「鐘が岬」など。
「荒れ鼠」「かわず」など。
「京の四季」「東山」など。
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酒宴席の座敷での舞として行われていたので、埃をたてないように、
一畳の空間でも舞うことができるように作られています。
屏風を立て、燭台にロウソクを灯して舞われることが多いのも座敷で舞われていた名残ですね。
「上方舞」は、能の動きを基本に歌舞伎や浄瑠璃の要素を加えたもので、
優雅な落ち着いた舞が特徴です。
女性の心理を表現した演目が多く、深い心情を舞で表現しています。
江戸前の舞踊とは全く違った味わいがあることに気付かれることと思います。
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掛合という三味線音楽のコラボレーション
三味線音楽No.7
昨年の中村勘三郎丈の訃報は日本中の人に悲しみを与えましたね。
元々、中村屋は、江戸時代に芝居小屋の興行主でした。
面白い演目を庶民に提供していたのですが、そのサービス精神から、
今度は自分たちが舞台で演じようということになったのです。
人々を楽しませようという中村屋の心をまさに体現していたのが、
中村勘三郎丈だったと思います。
舞台で何をやっても華があり、踊りの名手でもありましたね。
江戸時代の文化文政の頃、同じ舞台で異なる種目の三味線音楽を演奏する「掛合」の形式が生まれました。
文化が熟成し、新奇なものや華やかなものが求められていた時代でしたので、
掛合の演出は大変効果的でした。
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特に早変わりで踊る変化舞踊(へんげぶよう )が流行してからは、
長唄と浄瑠璃の掛合が盛んになりました。
長唄と常磐津節との掛合のとして、「瓢箪鯰」「奴道成寺」
長唄と清元節の掛合として、「座頭」「舌出し三番叟」
長唄と竹本の掛け合いとして「素襖落」
三味線演奏者は、何挺何枚(なんちょうなんまい)
三味線音楽No.6
江戸時代に歌舞伎所作事の地の音楽としての長唄は、その後の舞台上の一つの演奏形式を確立しました。
現代の日本舞踊の舞台形式も同じです。
長唄は舞台正面後方の二段の雛壇の上段で演奏されます。三味線は暗譜で演奏し、歌い手は見台に譜面を乗せて前に置いています。
三味線は「何挺(ちょう)」と数え、歌い手は「何枚」と数え、
「五挺五枚」とか「七挺七枚」というふうに人数をあらわします。
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バレエやオペラなどの洋楽の演奏家が舞台前面下の、
穴のようなオーケストラボックスで演奏されるのとは対照的で、
興味深いです。
さらに舞台にはお囃子が加わり、
舞台の三味線の一段下で演奏する出囃子と舞台の下手(客席から見て左)の陰の黒御簾の中で演奏する陰囃子とがあり、
「下座音楽」とも言われています。