心に残る・未来に残したい記憶
中央区文化推進事業助成
「佃島・月島百景〜心に残る・未来に残したい記憶」
今年度制作の動画が次々とホームページに掲載されているところです。
2月15日の「ビデオ上映と講演会・上映会」の際に上映したダイジェスト版も
掲載いたしました。
多くの方々にご協力をいただきましたこと、深く御礼を申し上げます。
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[動画] 佃島百景~第1集~
「2019年度 上映会&講演・意見交換会」上映版
この動画は、2020年2月15日に月島区民館で開催した「佃島・月島百景 上映会&講演・意見交換会」にて上映したものです(一部文字修正、写真追加)。
2019年度(令和元年度)は、「佃島百景~第1集~」として、4名の方にインタビューを行い、それを約50分に編集しました。
他では見ること聴くことのできない貴重なエピソードや資料も盛り込まれています。
ぜひご覧ください。
[動画] 月島百景~第2集~
「2019年度 上映会&講演・意見交換会」上映版
この動画も、2020年2月15日に月島区民館で開催した「佃島・月島百景 上映会&講演・意見交換会」にて上映したものです(一部文字修正、写真追加)。
2019年度(令和元年度)は、「月島百景~第2集~」として、14名の方にインタビューを行い、それを約50分に編集しました。
他では見ること聴くことのできない貴重なエピソードや資料も盛り込まれています。
ぜひご覧ください。
忘れてはならないものがたくさん散りばめられているように思います。
ご覧いただいて、ご感想などいただければ幸いです。
草餅のルーツは・・
おはようございます。
草餅の 柔らかければ 母恋し (川端茅舎)
先週、ご紹介しました「草餅」には、
ヨモギではなくてハハコグサを用いたというお話をしました。
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ハハコグサ(母子草)は、春の七草の一つ、
ゴギョウ(御形・オギョウ)のことです。
へらのような丸みを帯びた葉っぱを餅の中に入れていたのです。
ヨモギのほうが香りもよく、健康にもよさそうだと思いがちですね。
どうして、ハハコグサ(母子草)にこだわったのでしょうか。
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「ハハコグサ(母子草)」というのは、葉っぱや茎に白い柔らかい毛が生えていて、暖かく子どもを包み込むようなイメージがありますね。
毛が多い植物ですし、毛を持った種子が形成されるということを「ほほけ立つ」と呼んで、「ホホケグサ」がなまったものとも言われています。
「ホホケグサ」から「ハハコグサ」へ。
どうも古い呼び名は「ホウコグサ」とも呼ばれていたようです。
この呼び名が、実は雛(ひいな)送りという、桃の節句に行われる身を浄め災いを祓うという風習と結びついているように思います。
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春の七草の一つである
ハハコグサ(母子草)、つまりゴギョウ(御形・オギョウ)の、
「御形」とは幼児がハイハイをするような形の人形のことで、
これを「這子(ほうこ)」と呼びました。
「這子(ほうこ)」は、上巳の祓い(桃の節句)のときに幼児に贈られた人形です。
幼児の枕元に置かれ、祓いの後に神聖なものとして、翌年にもそれが使われるようになって、
幼児が3歳になるまで身に添えて持たせるという風習も生まれたといいます。
いわば神聖なぬいぐるみやお人形の形のお守りのようなものですね。
ヨモギではなく、ハハコグサ(母子草)が草餅に使われ、桃の節句にお供えしていた意味が何となく分かるような気がしてきました。
菱餅の緑色も母子草の色ともいわれています。
可愛い女児に、病気や災いがなく、健やかに育ってほしいという親心でしょうか。
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東北では、幼児や無垢な女の子のことを「おぼこ」といいますが、
「這子(ほうこ)」と語源に通じるものがあるようにも思います。
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源氏物語にも出ている「雛遊び(ひいなあそび)」。
この古くからの女児の人形遊びと上巳の祓いの人形とが結びついて、
更に江戸中期以降には次第に豪華なお雛様に発展していったのですね。
江戸幕府が3月3日の節日を「五節句」の一つに定めたことが、「雛遊び」を「雛祭り」にしたということが雛祭りが大きく発展していった大きな要因となったようです。
上巳の人形(ひとがた)が次第に保存され、飾ることによって人形に願いを込めるというふうになったのですね。
時代が進んでも、娘の幸福を願う親心に変わりはありません。
子どもの幸福を願う「桃の節句」や「端午の節句」。
未来を創っていく子どもたちを、大人はみんなで育てていきたいものです。
江戸っ子が、
子どもはみんなのもの、地域の財産なのだから、みんなで育てるものだ
という気概を持っていたように、
子どもたちを慈しんで育てていきたいですね。
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本日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
今週も幸多き一週間でありますように。
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「知とアート体験のたしな美講座」
さくらの季節です。
源氏の信仰のみなもと八幡さま
源氏の信仰のみなもとは八幡大神〜in Kamakura〜
由比若宮(ゆいわかみや)
材木座の閑静な住宅街のなかにあって、探し当てるのに苦労するくらいの小さな神社です。住居表示は鎌倉市材木座1-7。
「元八幡」バス停の傍に石柱があるくらいなので、スマホの地図アプリで見つけるのがおすすめです。
バス停脇の石柱
この由比若宮(元八幡宮とも)については、鶴岡八幡宮の案内板にこのような記述があります。
「源頼義(よりよし)公が前九年の役(1051~1062)平定後、1063年報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
1180年源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。」
由比若宮の入り口
源頼朝像
八幡大神とは、応神(おうじん)天皇(第15代)・神功(じんぐう)皇后(応神天皇の母)・比売(ひめ)神(アマテラスとスサノウとの誓いで生まれた女神で、
主神の母、妻、娘などとされる。応神天皇の皇后とする説あり。)の三柱の神が、あたかも一柱の神のように呼ばれたものですが、
なにか三位一体説みたいに見えますね。
神功皇后は、後の応神天皇を身ごもったまま三韓征伐を行ったとされる勇壮な話が有名ですが、それも影響があってか武神、弓矢の神とされるようになったようです。
武神であれば、源氏や平氏などの武士たちが尊崇するようになるのも無理からぬことで、特に清和源氏が氏神として祀ったことで、
宇佐八幡(九州大分)―石清水八幡(京都)―鶴岡八幡(鎌倉)と繋がっていき、ひいては日本全国に広がったとのこと。
日本は鎌倉、室町、江戸と武家の天下が長く続いたこともあり、日本一数の多い神社が八幡宮になったのですね。
源頼義が、海(由比ガ浜)をまじかに臨む風光明媚な地「由比郷鶴岡」に八幡宮を勧請し、それが後の鶴岡八幡宮・鎌倉幕府の隆盛に繋がっていくなんて、なにか歴史のロマンを感じられないでしょうか。
由比ガ浜西
由比ガ浜東
現在の由比若宮は、ほんとに小さなお社だけの神社として、悠久の歴史の中に佇んでいます。
由比若宮
春の香りがする草餅は
おはようございます。
おらが世や そこらの草も餅になる (小林一茶)
「草餅」も、桃の節句にそなえるものですね。
田んぼの畦道などに生えている蓬(よもぎ)の香りが何とも言えないのが草餅ですね。
子どもの頃は、柔らかい新葉を摘んできて、祖母や母に草餅をよくつくってもらったものです。
江戸の中期から明治になってこの蓬が使われるようになったそうです。
それまでは、草餅といえば、春の七草の一つ「御行(ごぎょう)」でした。
「御行(ごぎょう)」は、「母子草(ははこぐさ)」の通称です。
小林一茶や松尾芭蕉も「草餅」といったら、この「御行(ごぎょう)」が入った餅のことを指していたようです。
一茶が言う、そこいらに生えている草だったのですね。
滝沢馬琴が編纂した俳句の季語を分類した『俳諧歳時記』(1803)の中には、
三月三日に母子草を採り、蜜と和して粉にしてこれを龍古(羹)という
と、このように記されています。
小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803~6)には、
三月三日の草餅はこの(母子)草で作ったものであったが、
近ごろは蓬で作ったほうが、緑が濃くて喜ばれるようになった
と、このようにあります。
ほぼ同年にこのような二つの書物ができて、
「草餅」は母子草でつくるもので、「蓬餅」とは違うのだと述べているようです。
とても興味深いですね。
「母子草(ははこぐさ)」は、「鼠麹草(そきくそう)」とも呼ばれ、
咳の薬でもあるということです。
春先の季節の変わり目に、咳にも良いとされるこの「母子草(ははこぐさ・ごぎょう)」を食したことは、
お手軽で、身近な薬草だったのかもしれませんね。
現代では母子草を目にすることも少なくなりました。
そこいらにある季節の草花を食し、体にもいいなんて、今なら贅沢なことかもしれませんね。
次は母子草と桃の節句の関わりに触れてみます。
本日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
今日もきらきらとお過ごしくださいね。
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「知とアート体験のたしな美講座」
さくらの季節です。
→こちらもご覧くださいませ。
桃の節句に白酒を飲むのは、どうして?
おはようございます。
「少し白酒召されたか 赤いお顔の右大臣」
~童謡「うれしいひなまつり」より~
雛祭りにお雛様に供える「白酒」。
室町時代からあったという白酒とひな祭りが結びついたのは江戸時代からだと言われています。
江戸の町で、吉原の花魁や女性たちにも人気だったのが白酒です。
当初は清酒や濁酒をベースにしてつくられていたようです。これは酸味が強くなって余り美味しくなかったようです。
現在の白酒は、みりんや焼酎をベースにしていて、もち米と米こうじを混ぜて約1か月熟成させて、
石うすで米粒を細かに砕いて作るものだそうです。
殊に江戸時代の桃の節句には、この時期「白酒」は欠かすことのできない飲み物だったのです。
江戸時代に、白酒がそんなに人気だったとは、今では想像もできませんよね。
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「白酒売り」という商売は、江戸庶民にとても親しまれていたのです。
歌舞伎十八番の『助六』にも登場してきます。
白酒売りは、「山川白酒」と書いてあるうちわを持っていますが、これは当時の人気の京都の銘柄でした。
桃の節句が近づくと、「山川白酒」と記した桶を天秤棒でかついで、甘くて口当たりのいい白酒を売り歩きました。
吉原の花魁にも町の女性たちにも人気の「白酒売り」。
桶に乗せた箱には、ガラスの徳利が入っていたというのも、女心をくすぐる、そんな演出があったようです。
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桃の節句には、欠かせない白酒。
普段は酒屋では置かない白酒が、この時期だけ店頭に並んでいたのです。
桃の節句に白酒を飲む風習は、鎌倉河岸町豊島屋(現在の内神田二丁目2-1)が
発祥といわれています。
初代豊島屋十右衛門の夢枕に紙雛が現れて、白酒の製法を伝授したといいます。そのとおりに製造して、桃の節句の前に売り出したところ、それがものすごく売れたのです。
「山ならば富士、白酒ならば豊島屋」と言わしめるほど、評判の酒屋でした。
荒くて辛味があるが、精製されていてうまい。
桃の節句の前の2月25日に、白酒の大売り出しが行われ、江戸中から人が大勢やってきて、江戸の風物詩になったそうです。
何しろ人が山のように集まり、容易に買うことができないほどでした。
白酒はその日の昼頃には売り切れて、1400樽、売上げは数千両だったとか・・。
現代、これに匹敵する飲み物があるでしょうか。
この豊島屋(創業慶長元年・1596年)は、現在でも東京千代田区猿楽町で東京最古の酒屋として営業を続けています。
当時、お酒は「下りもの」として、上方からきたものだったのです。江戸には上方のような製造技術がなかったのですが、この豊島屋の白酒は群を抜いて美味だったのですね。
京都の白酒売りや江戸豊島屋の白酒。
江戸時代にタイムスリップして、見て、味わってみたいですね。
今日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
佳き一日になりますように。
『源氏物語』にも出てくる雛(ひいな)遊び
おはようございます。
手のひらに 飾って見るや 市の雛 (小林一茶)
賑わう市で美しい雛を見かけて、そっと手に取る、そこに笑みがこぼれる。
そんな情景が目に浮かんできますね。
今日は3月4日、もう雛人形はしまわれましたか。
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「雛人形」の「雛(ひいな)」という言葉は古くから日本にありました。
もともと中国からきていた習慣、五節句の一つ、3月最初の巳の日(上巳・じょうし)は忌(い)み日とされて、川で身を浄める習慣がありました。
日本では、農耕儀礼として、3月初めに物忌み(ものいみ)をして、紙で作った人形(ひとがた)で身体をなでて、それを川や海に流して穢れを祓うという習慣がありました。
これらが相まって、「上巳の祓え」(ひいな送り)が行われてきたのです。
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この人形が「雛人形」の原形と言われて、平安時代には、
貴族の子どもたちが雛遊びに用いた人形を「雛(ひいな)」と呼びました。
『源氏物語』にも「雛(ひいな)遊び」という言葉が登場します。
室町時代には、公家の間で雛と雛道具を若い婦人に贈るという習慣があったそうです。
現代のような「雛祭り」は江戸時代に生まれました。
初めは、紙雛を雛屏風(ひなびょうぶ)の前に2つほど立てて、菱餅や白酒を供える質素なものだったようです。
元禄時代になって、公家の正装の姿で布製で作ったのが都市部で流行しました。
「内裏雛(だいりびな)」という言葉も生まれたのです。
今日、目にするような雛壇をもうけて、三人官女や五人囃子などいろいろな人形や調度品を揃えるようになったのはこの頃からです。
きらびやかに、豪華に、競って作られました。
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ところで、
雛膳の中に、はまぐりの潮汁 がありますね。
意味も分からず、ただ、ちらし寿司と一緒に食べるものと思っていましたが、
実はこれにも意味があるのです。
かつて旧暦3月3日、水辺で祓えをする「雛(ひいな)送り」からきたという「磯遊び」。
「磯遊び」は今では潮干狩りとなっていますが、もともとは身を浄めるものだったのです。
「磯遊び」の名残から、はまぐりのお吸い物を雛膳に揃えるようになったといいます。
身を浄めるという「上巳の節句」にふさわしいものだったのです。
風習の中には本当に興味深い歴史が隠されているものですね。
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明日は白酒の歴史をご紹介しますね。
本日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
今日も幸せいっぱいの一日になりますように。
お地蔵さまは6レンジャー
前回の円応寺から大分北鎌倉駅方向に戻ったところ、
長寿寺の脇から、亀ヶ谷(かめがやつ)坂切通しに入ることができます。
三方を山で囲まれた鎌倉とその外部とを結ぶ道は七つあり、
鎌倉七切通し(七口とも)と呼ばれていますが、
この亀ヶ谷坂切通しもその一つ。
円覚寺や建長寺のある山ノ内と寿福寺、英勝寺のある扇ガ谷を結ぶ経済的にも軍事的にも重要な切通しとして活躍しました。
1180年源頼朝が安房から大軍を引き連れて鎌倉入りしたときは、この切通しだけが北から入ることのできる唯一の道であったとのことで、由比ガ浜の元八幡(由比若宮)に向かったと伝えられています。
この亀ヶ谷坂の山ノ内側に六体のお地蔵さまがひっそりと祀られています。道に気を取られて歩いているときっと気が付かずに通り過ぎてしまいそうな、古びた六体のお地蔵さま・・・。
いわれも何も書かれてはいないのですが、通るたびに気になって手を合わせます。
鎌倉駅西口から御成小学校前を通り鎌倉文学館に向かう途中の交差点にも、六体のお地蔵さまが祀られています。
鎌倉時代、その近くに刑場があり、そこで処刑された罪人たちの霊を慰めるために建立されたものといわれます。
六体のお地蔵さまをお祀りするのは、死後に輪廻転生する世界(生きている間も六道輪廻をしているのですが)、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人閒・天の六道に合わせ、それぞれのお地蔵さまが苦しんでいる衆生を救ってくださるという信仰に基づくものです。
そうだとすると、亀ヶ谷坂の六地蔵は、新田義貞の鎌倉攻めの際この切通しでの戦いで亡くなった武士の霊を慰めるためのものなのかも(仮粧坂切通しの激戦が有名ですが)・・・・・。
そんなことを思いながら、昼なおほの暗い亀ヶ谷坂切通しを歩きました。
道端で見つけたミツマタ
笑っている?閻魔さま
北鎌倉駅から鎌倉街道を南東に鶴岡八幡宮方向にずっと歩いて行くと、
建長寺を過ぎて巨福路坂洞門の手前右側に円応寺があります。
閻魔大王座像(国重要文化財)で有名なお寺ですが、それほど観光客が多くはなく、割と静かにお参りができます。
鎌倉街道からの石段を上っていくと、狭い寺域の真正面に本堂があり、
うす暗い中に閻魔様がほの明るく見えています。
運慶作の「笑い閻魔」と呼ばれています。
運慶といえば、鎌倉時代に活躍した仏師です。写実的で勇壮な金剛力士像などが有名ですね。
この運慶ですが、閻魔大王座像にはこのような逸話が伝わっています。
運慶が頓死して閻魔様の前に引き出されたとき、
「お前は生前の罪により、地獄へ落ちるべきところであるが、もしお前がわしの姿を彫像し、その像を見た人々が悪行をなさず、善い縁に導かれるなら、お前を今一度娑婆に戻してやろう。」と言われ、
運慶がそれを約束したので息を吹き返したというのです。
運慶は生き返った喜びに思わず笑いながら閻魔像を彫ったため、閻魔様のお顔も笑っているように見える・・・と。
閻魔様をよくよく拝見したところ、
やっぱり怒っているように見えるのですが・・、
皆さんにはどのように見えますか?
2月15日「佃島・月島百景」ビデオ上映と講演会のご報告
中央区文化推進助成事業として昨年度から取り組んでまいりました「佃島・月島百景」ですが、先日2月15日に大勢の方にご参加いただき、心から感謝いたします。
どうもありがとうございました。
未公開映像も含め、『月島百景』ホームページでも皆様にご覧いただけるようにいたします。
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江戸初期からの子孫の方々がお住まいの佃島。長くこのまちに暮らし、まちの歴史を知る方々からの貴重なお話。
ごく普通の生活の記憶。
「自分が死んだら、もう話せる人はいなくなる。甥っ子はもう知らないことだ。」
「自分が経験したことだから。」
ごく日常の生活史はどんどん消え去っていくものです。
それを記録に残し、次世代へ伝えていくことは、まちの歴史であり郷土史であり、まちの財産でもあります。
月島の築島以来このまちに移り住んできた子孫の方々、新天地を求めてこのまちにやってきた子孫の方々の貴重なお話。
どうぞ動画でご覧ください。
今回インタビューにご協力いただいた方々を通して、お一人お一人がこの町の宝であることを実感しています。
ご協力くださいました皆様に、この場をお借りして感謝申し上げます。
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<内容>
中央区文化推進事業助成
心に残る・未来に残したい記憶『佃島・月島百景〜第一集〜』
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2月15日(土)10:00〜16:00、月島区民館にて実施
10:00〜14:00 佃島・月島それぞれのビデオ上映
14:00〜16:00 佃島・月島におけるオーラルヒストリービデオの意義(芝浦工業大学 志村秀明教授) など
*意見交換会:動画の感想や思い出を語り合いながら動画の活用等についてご意見をいただきました。
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動画など掲載後、お知らせいたします。
その際はどうぞご覧ください。
<『月島百景ー心に残る・未来に残したい記憶ー』ホームページ>
http://tsukishima100.com/
鎌倉を静かに見守る太田道灌
太田道灌のお墓を見つけました。
道灌は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰(かさい)で、元々の江戸城を築いたことで有名ですが、鎌倉の源氏山から寿福寺に抜ける途中の下り坂の脇(英勝寺の墓地の裏側)にひっそりと佇んでいました。
傍らにある碑文を要約すると、
「徳川家康の側室のお勝の方が、出家後に英勝院と号し、三代将軍家光から源氏山一帯を賜って、英勝寺を開いた。この太田道灌の墓は、1826年水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が再建したものである。」とのことでした。
あんなに有名な武将のお墓にしては、随分と質素で小振りなお墓でしたが、ここ以外でも伊勢原市に首塚、胴塚があるとのこと。
なお、道灌は刺客に殺されたということですが、刺客が読んだ上の句「かかる時さこそ命の惜しからめ」に、「かねてなき身と思い知らずば」と下の句を返したということです。
意味は、「このような時、どんなに命が惜しいだろう。」、「前もってこの身は無常であると悟っていなかったならば。」です。・・・すごい。
奇しくも辞世の句となった句が、今まさに刺客に刺された時に詠まれようとは。
泰然自若とした人としてのあり様に、感服するばかりです。