伴奏音楽になった長唄
三味線音楽No.5
江戸時代、三味線は庶民の心を捉え、一大ジャンルとして発展しました。
歌舞伎が1600年に、出雲の阿国によって京都の四条河原で「カブキ踊り」として始まった時は、
能の楽器を応用した囃子が中心でした。
歌舞伎舞踊に三味線が用いられたのは遊女歌舞伎になってからのようですが、実態はよく分かっていないようです。
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1629年に遊女歌舞伎が禁止され、現在のような野郎歌舞伎が生まれて発展するようになるのですが、
その頃になって、三味線が重要な楽器として使われるようになっていきます。
歌舞伎における三味線方は、当初盲人音楽家たちの指導の下にありましたが、
次第に独立して「長唄」演奏家となっていきました。
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18世紀後半、幕府の統制強化政策によって、上方の町人文化が沈滞化し、逆に江戸の文化が開花し始めます。
その時、上方歌舞伎の名女形 (おやま)が江戸へ相次いで下り、
同時に三味線方や囃子方も江戸へ下って、江戸で活躍するようになります。
そして、歌舞伎所作事の地の音楽として、長唄は不動の地位を得るようになりました。(つづく)
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江戸時代、三味線が流行
三味線音楽No.4
江戸時代、新参楽器の三味線はあっという間に庶民の心をとらえて、様々な種類に発展していきました。
それは歌詞の内容や節回しなど、その歌い方や語り方に差異が生じていっただけではなく、
三味線という楽器そのものにも細かい工夫が凝らされていきました。
つまり、音楽の種類の多様化とともに、その音色にも変化を求めて、
その曲種にふさわしい微妙な味わいを出していきました。
これは洋楽の楽器とは全く違うところです。
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同じ楽器でどの種目も演奏される洋楽器とは異なり、
三味線は楽器の大きさも棹の太さも、皮の張り具合、糸の太さ、駒の形、撥の大きさや厚さも
みんなそれぞれの種目で違うため、音色もすべて微妙に異なります。
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一般的に三味線は、棹の太さによって、「太棹」「中棹」「細棹」の三種に区分します。
「細棹」は、長唄、江戸の端唄や小唄、河東節、荻江節などに用います。
「中棹」は、上方舞の伴奏としての地歌や常磐津節、清元節などに用います。
「太棹」は、義太夫節の三味線で、お腹にデンデンと響く、太くて力強い音色を奏でます。
京舞の地として祇園の綺麗どころが演奏する京三味線は、
「細棹」よりも更に細い棹の三味線で、撥も、琵琶法師が使っていたような、小さくて独特のものです。(つづく)
琵琶法師がつくった音楽ジャンル
三味線音楽No.3
琵琶法師がつくった2つの音楽ジャンル、
1つ目は当時民間に流布していた流行り小唄をつなぎ弾いて歌う「地歌」、
2つ目は「平家物語」などの「平曲」を弾いて語る「浄瑠璃」でしたね。
三味線の技巧の発展とともに歌詞に一連の意味あるものをつくるようになり、
「長歌」と呼ばれました。また短い洒落た歌詞を用いた創作曲は「端歌」と呼ばれました。
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2つ目の「浄瑠璃」は、人形芝居と結びついて「人形浄瑠璃」として興行されるようになりました。
また、浄瑠璃の語り手が独立して「太夫」と呼ばれ、
江戸、大阪、京都では、それぞれの特色ある浄瑠璃が発達しました。
「人形浄瑠璃」だけではなく、歌舞伎芝居と結びついたり、音楽本位の「歌浄瑠璃」になったりしました。
この「人形浄瑠璃」は、大阪に竹本義太夫が登場して、大作家の近松門左衛門と組んだことで、
「義太夫節」が人形浄瑠璃の代名詞になるまでになりました。
義太夫節は歌舞伎にも取り入れられていきます。
現在舞踊でも有名な常磐津、清元も、ここから誕生したのですね。(つづく)
木戸番は焼き芋を売っていた
ときどき目にすることがあります。
盗人や強盗がやってきても、火事になっても、
国が国費を使って警備するのではなく、
町人たちが町費を出して管理するという、
自費組織だったのですね。
江戸の町人地では、この木戸番がもうけられ、
夜四つ(夜10時)から明け方六つ(朝六時)まで閉められ、
通行ができなくなりました。
北原亞以子原作の「とおりゃんせ〜深川人情澪通り」がNHKの「金曜時代劇」で放映されたことがありました。
それぞれの過去を秘めたこの夫婦と町の人々との交流を描いた物語でした。
池上季実子演ずる女房お捨が、女性から見ても、なかなか味わい深く、とても素敵だったなと、印象に残っています。
人情味があって、身のこなしも女性らしく優雅さもあって、あこがれでした。
人のいいこの実直な夫婦が醸し出す雰囲気にも温もりを感じていました。
人気のドラマでした。
当時、こういう人たちが大勢いたのだろうと思いますね。
木戸番は、番小屋ともいわれ、毎日の木戸の開閉は大家や月番がしました。
ただし、夜の10時以降、脇のくぐり戸の開閉と、夜間の火の用心の夜回りは木戸番がしたようです。
木戸番は町雇いで、年に一両か一両二分の低い給金なので、わらじ、駄菓子、ろうそく、ほうきなどの日用雑貨、冬は焼き芋などを売ることが許されていました。
実際には、住み込みの独身やお年寄りの独り者が多かったとか。
江戸の木戸番でも冬は焼き芋を売っていたのですね。
香ばしい香り、今もその香りに誘われて、食べたくなります〜。
今週も秋を楽しみましょう。秋を見つけたら、また教えてくださいね。
どうぞよろしくお願いします。☆
琵琶法師は音楽教師だった
三味線音楽No.2
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
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ご存知、『平家物語』の冒頭ですね。
実は、琵琶法師はこの『平家物語』のような合戦譚や英雄譚だけを語っただけではなく、
日本の音楽の礎を作った人でした。
例えば、牛若丸とその恋人の浄瑠璃姫の物語を三味線で語り、これが非常に人気を博したそうです。
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ここから、語り物のことを「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。
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このように最初に三味線音楽に関わった琵琶法師は、
次の2つの音楽ジャンルをつくったのです。
1つ目は、「歌い物」の原型である「地歌」、
つまり当時民間に流布していた流行り小唄をつなぎ弾いて歌うこと、
2つ目は、「語り物」の原型である「浄瑠璃」、
つまり「平家物語」などの「平曲」を弾いて語ることです。
この平曲をかたる琵琶法師のお話ですね。
また、彼らは合戦譚や英雄譚のほかに、
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牛若丸とその恋人の浄瑠璃姫の物語を三味線で語り、
これが非常に人気を博したそうです。
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ここから、「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。
室町時代に平曲で専門組織である当道座を作るまでに至った盲人音楽家たちは、
江戸時代になると、幕府の保護を受けることになりました。.
従来の平曲に加えて、箏や三味線、海外からきた胡弓の演奏も行うようになって、
大名屋敷や商家、庶民の社交場であった遊里や芝居小屋でも、
彼らは演奏したり、教えたりしました。
一般の市井の人々はそうした音楽を楽しんだり、習ったりするようになりました。
.特に三味線は、持ち運びができるということで、
家庭音楽、座敷音楽のほかに、
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様々な種類の音楽を生み出すことになっていきます。(つづく)
三味線音楽の始まり
三味線音楽No.1
今日は庶民の音楽としての三味線音楽の始まりについて、
少しご紹介します。
室町時代の以降の武士はそれに加えて能楽を楽しみ、
庶民は笛や打楽器などを楽しんでいました。
三味線の祖型になる楽器が大阪の貿易港の境に上陸しました。
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それが、南の琉球(沖縄)の三線(さんしん)という楽器で、
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三線の胴体は蛇皮なので、しばらくすると破れてしまいます。
でも、日本には大きな蛇の皮を調達することはできなかったので、
手近な皮を張って工夫した結果、猫や犬の皮を張った現在の三味線が誕生しました。
最初に三味線音楽に関わったのは琵琶法師でした。
やがて、そこから、主として歌曲を旋律的に聞かせる「歌い物」と、
物語を劇的に聞かせることを主眼とした「語り物」という、
二つの大きな流れの発展していくことになるのですね。(つづく)
江戸っ子に「忙しい」は禁句だった
顔色を変えて怒ったそうです。
ええ? どうして?
江戸っ子のように、そんな時は「ご多用のところ、誠に申し訳ありませんが・・」と語りかけたり、応える時にも「いやあ、今雑用に追われていまして・・」
乗合船でのマナーを今に生かす
江戸の人々は乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分、腰を浮かせて席を作ってあげたということです。
「ありがとう」は「有り難きことを今いただきました」ということ
江戸の人々も、「ありがとう」を大事にしました。
自然や周りの人びとに感謝する心の大切さを説きました。
外国人が感じるもっとも美しい日本語は「ありがとう」だそうです。
「ありがとう」は「有り難うございます」から転じました。
「有り難きことを今いただきました」ということです。
感謝道の実践で、ホームレスから身を起こし社会的な成功をおさめた杉崎仁志さんの本『あなたの知らない魔法の言葉』。この中で口先感謝道の実践を呼びかけています。
口先だけでもいい。とにかくあらゆる事象に対して「ありがとうございます」と言う習慣を体に覚えさせる。まず最低、家族、両親には感謝する。そして、今日会った人すべてに感謝する。
椅子にも「椅子さん、ありがとうございます」と。とにかく「ありがとうございます」と口に出し続ければいいと。
私は、寝る前に、善いことにも悪いことにも「今日も一日ありがとう」の思いで、感謝日記をつけています。悪いことと思うことは、実はいろんな体験をして、そこから何かを学べるのです。そうすると、翌日、朝の目覚めが全く違ってきますよ。
「ありがとう」は最も美しい日本語
「ありがとう。」と素直に言える人は、人の心に小さな灯をともす人。