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Oct 28, 2013

伴奏音楽になった長唄

三味線音楽No.5

 

江戸時代、三味線は庶民の心を捉え、一大ジャンルとして発展しました。

歌舞伎の中の伴奏音楽としての三味線を考えてみます。
 

歌舞伎が1600年に、出雲の阿国によって京都の四条河原で「カブキ踊り」として始まった時は、

能の楽器を応用した囃子が中心でした。

 

歌舞伎舞踊に三味線が用いられたのは遊女歌舞伎になってからのようですが、実態はよく分かっていないようです。

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1629年に遊女歌舞伎が禁止され、現在のような野郎歌舞伎が生まれて発展するようになるのですが、

その頃になって、三味線が重要な楽器として使われるようになっていきます。

 

歌舞伎における三味線方は、当初盲人音楽家たちの指導の下にありましたが、

次第に独立して「長唄」演奏家となっていきました。

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18世紀後半、幕府の統制強化政策によって、上方の町人文化が沈滞化し、逆に江戸の文化が開花し始めます。

 

その時、上方歌舞伎の名女形 (おやま)が江戸へ相次いで下り、

同時に三味線方や囃子方も江戸へ下って、江戸で活躍するようになります。

そして、歌舞伎所作事の地の音楽として、長唄は不動の地位を得るようになりました。(つづく)
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三味線1

 

 

Oct 28, 2013

江戸時代、三味線が流行

三味線音楽No.4

 

江戸時代、新参楽器の三味線はあっという間に庶民の心をとらえて、様々な種類に発展していきました。

 

それは歌詞の内容や節回しなど、その歌い方や語り方に差異が生じていっただけではなく、

三味線という楽器そのものにも細かい工夫が凝らされていきました。

 

つまり、音楽の種類の多様化とともに、その音色にも変化を求めて、

その曲種にふさわしい微妙な味わいを出していきました。

これは洋楽の楽器とは全く違うところです。

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同じ楽器でどの種目も演奏される洋楽器とは異なり、

三味線は楽器の大きさも棹の太さも、皮の張り具合、糸の太さ、駒の形、撥の大きさや厚さも

みんなそれぞれの種目で違うため、音色もすべて微妙に異なります。

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日本人の聴覚がいかに素晴らしいか、それが際立ちます。

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写真 2012-10-20 6 36 08

 

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一般的に三味線は、棹の太さによって、「太棹」「中棹」「細棹」の三種に区分します。

 

「細棹」は、長唄、江戸の端唄や小唄、河東節、荻江節などに用います。

「中棹」は、上方舞の伴奏としての地歌や常磐津節、清元節などに用います。

「太棹」は、義太夫節の三味線で、お腹にデンデンと響く、太くて力強い音色を奏でます。

 

京舞の地として祇園の綺麗どころが演奏する京三味線は、

「細棹」よりも更に細い棹の三味線で、撥も、琵琶法師が使っていたような、小さくて独特のものです。(つづく)

 

 

Oct 28, 2013

琵琶法師がつくった音楽ジャンル

三味線音楽No.3

 

琵琶法師がつくった2つの音楽ジャンル、

1つ目は当時民間に流布していた流行り小唄をつなぎ弾いて歌う「地歌」、

2つ目は「平家物語」などの「平曲」を弾いて語る「浄瑠璃」でしたね。


1つ目の「地歌」は、当時の流行歌を組み合わせて弾き歌いをするものから、

三味線の技巧の発展とともに歌詞に一連の意味あるものをつくるようになり、

「長歌」と呼ばれました。また短い洒落た歌詞を用いた創作曲は「端歌」と呼ばれました。

更に歌と歌との間には「合の手」が挿入され、名人芸的な技巧も発達しました。

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2つ目の「浄瑠璃」は、人形芝居と結びついて「人形浄瑠璃」として興行されるようになりました。

また、浄瑠璃の語り手が独立して「太夫」と呼ばれ、 

江戸、大阪、京都では、それぞれの特色ある浄瑠璃が発達しました。

 

「人形浄瑠璃」だけではなく、歌舞伎芝居と結びついたり、音楽本位の「歌浄瑠璃」になったりしました。

 

 

この「人形浄瑠璃」は、大阪に竹本義太夫が登場して、大作家の近松門左衛門と組んだことで、

「義太夫節」が人形浄瑠璃の代名詞になるまでになりました。

義太夫節は歌舞伎にも取り入れられていきます。

 

また、「歌浄瑠璃」から、一中節、豊後節、この豊後節から常磐津節、清元節などが生まれました。
 

現在舞踊でも有名な常磐津、清元も、ここから誕生したのですね。(つづく)

 

 

 

Oct 28, 2013

木戸番は焼き芋を売っていた

水戸黄門や大岡越前など、人情時代劇で見ていると、
盗人が豪商の家の蔵から千両箱を荷車で運び出している様子を
ときどき目にすることがあります。

盗人や強盗がやってきても、火事になっても、

江戸の町は現在の警察や消防のように、
国が国費を使って警備するのではなく、
町人たちが町費を出して管理するという、
自費組織だったのですね。
そこで、木戸番や自身番が各町ごとにもうけられていたのです。

江戸の町人地では、この木戸番がもうけられ、

夜四つ(夜10時)から明け方六つ(朝六時)まで閉められ、
通行ができなくなりました。

北原亞以子原作の「とおりゃんせ〜深川人情澪通り」がNHKの「金曜時代劇」で放映されたことがありました。

2013-10-28 11.48.11

ある町人町で木戸番として雇われた夫笑兵衛・神田正輝と女房お捨・池上季実子。

それぞれの過去を秘めたこの夫婦と町の人々との交流を描いた物語でした。

池上季実子演ずる女房お捨が、女性から見ても、なかなか味わい深く、とても素敵だったなと、印象に残っています。

人情味があって、身のこなしも女性らしく優雅さもあって、あこがれでした。
人のいいこの実直な夫婦が醸し出す雰囲気にも温もりを感じていました。

人気のドラマでした。

当時、こういう人たちが大勢いたのだろうと思いますね。

木戸番は、番小屋ともいわれ、毎日の木戸の開閉は大家や月番がしました。

ただし、夜の10時以降、脇のくぐり戸の開閉と、夜間の火の用心の夜回りは木戸番がしたようです。

 

 

木戸番は町雇いで、年に一両か一両二分の低い給金なので、わらじ、駄菓子、ろうそく、ほうきなどの日用雑貨、冬は焼き芋などを売ることが許されていました。

実際には、住み込みの独身やお年寄りの独り者が多かったとか。

 

江戸の木戸番でも冬は焼き芋を売っていたのですね。

香ばしい香り、今もその香りに誘われて、食べたくなります〜。

 

今週も秋を楽しみましょう。秋を見つけたら、また教えてくださいね。

どうぞよろしくお願いします。☆

 

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Oct 27, 2013

琵琶法師は音楽教師だった

三味線音楽No.2

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす

 驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

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ご存知、『平家物語』の冒頭ですね。

実は、琵琶法師はこの『平家物語』のような合戦譚や英雄譚だけを語っただけではなく、

日本の音楽の礎を作った人でした。

例えば、牛若丸とその恋人の浄瑠璃姫の物語を三味線で語り、これが非常に人気を博したそうです。

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ここから、語り物のことを「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。

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このように最初に三味線音楽に関わった琵琶法師は、

次の2つの音楽ジャンルをつくったのです。

 

1つ目は、「歌い物」の原型である「地歌」、

つまり当時民間に流布していた流行り小唄をつなぎ弾いて歌うこと、

 

2つ目は、「語り物」の原型である「浄瑠璃」、

つまり「平家物語」などの「平曲」を弾いて語ることです。

 

 
小泉八雲の「怪談」に出てくる「耳なし芳一」は、

この平曲をかたる琵琶法師のお話ですね。 

また、彼らは合戦譚や英雄譚のほかに、
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牛若丸とその恋人の浄瑠璃姫の物語を三味線で語り、

これが非常に人気を博したそうです。
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ここから、「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。

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室町時代に平曲で専門組織である当道座を作るまでに至った盲人音楽家たちは、

江戸時代になると、幕府の保護を受けることになりました。.

 

従来の平曲に加えて、箏や三味線、海外からきた胡弓の演奏も行うようになって、

大名屋敷や商家、庶民の社交場であった遊里や芝居小屋でも、

彼らは演奏したり、教えたりしました。

 

 
箏や三味線の音色は大勢の人の心を捉え、

一般の市井の人々はそうした音楽を楽しんだり、習ったりするようになりました。
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特に三味線は、持ち運びができるということで、
家庭音楽、座敷音楽のほかに、

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演劇や舞踊との結びつきが強くなり、

様々な種類の音楽を生み出すことになっていきます。(つづく)

 

 

Oct 27, 2013

三味線音楽の始まり

三味線音楽No.1

 

今日は庶民の音楽としての三味線音楽の始まりについて、
少しご紹介します。

 
 
平安時代の貴族は雅楽を、鎌倉時代の武士は平家琵琶を、

室町時代の以降の武士はそれに加えて能楽を楽しみ、

庶民は笛や打楽器などを楽しんでいました。
 
室町時代に鉄砲やキリスト教の伝来に次いで、

三味線の祖型になる楽器が大阪の貿易港の境に上陸しました。
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それが、南の琉球(沖縄)の三線(さんしん)という楽器で、

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胴が錦蛇の皮でくるまれた三絃の楽器であったそうです。.

三線の胴体は蛇皮なので、しばらくすると破れてしまいます。

でも、日本には大きな蛇の皮を調達することはできなかったので、

手近な皮を張って工夫した結果、猫や犬の皮を張った現在の三味線が誕生しました。

 

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最初に三味線音楽に関わったのは琵琶法師でした。

やがて、そこから、主として歌曲を旋律的に聞かせる「歌い物」と、

物語を劇的に聞かせることを主眼とした「語り物」という、

 

二つの大きな流れの発展していくことになるのですね。(つづく)

 

琉球の三線

 

 

 

Oct 26, 2013

江戸っ子に「忙しい」は禁句だった

江戸の人は、ほかの人から「忙しそうですね。」と言われると、
顔色を変えて怒ったそうです。

ええ? どうして?

現代人は時々、自慢気に、またお断りしたい時にも使っていませんか。
「忙」という字は分解すると、りっしんべん、つまり「心」が「亡」くなったと書きます。よく言われることですね。
江戸では心を失った人はデクの棒(丸太)と呼び人間ではないと考えたほど。
「何言ってんだ。我を忘れて何ができるんだ」
「心がそこにないんだったら、まともなことができるわけがないじゃないか」
「相手のことを思いやることができないって、言っているのか」
と、解釈されました。

江戸っ子に「忙しい」という言葉は絶対に禁句だったのですね。

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江戸っ子のように、そんな時は「ご多用のところ、誠に申し訳ありませんが・・」と語りかけたり、応える時にも「いやあ、今雑用に追われていまして・・」

「今書き入れ時でございまして」などという言うのがいいのかもしれません。
言葉というのは、語っている自分がその状況を作り出しているものなのですね。

 

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Oct 26, 2013

乗合船でのマナーを今に生かす

電車では、こぶし腰一つ分、腰を浮かせばもう一人が座れます。

江戸の人々は乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分、腰を浮かせて席を作ってあげたということです。

江戸時代、「矢切りの渡し」の渡し船は、おおよそ乗員は15人前後だったそうです。向こう岸へ渡る時間は決まっていて、馬も客になることもありました。

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狭い船の中、譲り合うのは当たり前のことだったそうです。ちょっと腰を浮かして、こぶし一つ分ぐらい譲れば、すぐに空き席ができました。

お互い様だったのですね。

現代は乗合船に代わって、地下鉄やJRなどの電車が一般的です。乗合船と違って、電車に乗り込んで立ったままでもいられるのですが、目の前に座っている人のこの隙間、ちょっと動いてくれたらもう一人座れるのに・・と思うこと、よくありますね。

お年寄りに気持よく座席を譲る光景を見かけると、気持ちがいいものです。
心に余裕を持って、お互い様の思いで電車に乗りたいものです。
今日から私も実行です。
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Oct 26, 2013

「ありがとう」は「有り難きことを今いただきました」ということ

江戸の人々も、「ありがとう」を大事にしました。

自然や周りの人びとに感謝する心の大切さを説きました。

外国人が感じるもっとも美しい日本語は「ありがとう」だそうです。

じっと目を見て「ありがとう」と言われたとき、日本人が奥ゆかしく見えるそうです。

「ありがとう」は「有り難うございます」から転じました。

「有り難きことを今いただきました」ということです。

善いことも悪いことも「一期一会」の生涯にただ一度の出会い。

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感謝道の実践で、ホームレスから身を起こし社会的な成功をおさめた杉崎仁志さんの本『あなたの知らない魔法の言葉』。この中で口先感謝道の実践を呼びかけています。

口先だけでもいい。とにかくあらゆる事象に対して「ありがとうございます」と言う習慣を体に覚えさせる。まず最低、家族、両親には感謝する。そして、今日会った人すべてに感謝する。

更に自分の周りのもの、目の前に机、椅子があったら、「机さん、ありがとうございます」。
椅子にも「椅子さん、ありがとうございます」と。とにかく「ありがとうございます」と口に出し続ければいいと。

私は、寝る前に、善いことにも悪いことにも「今日も一日ありがとう」の思いで、感謝日記をつけています。悪いことと思うことは、実はいろんな体験をして、そこから何かを学べるのです。そうすると、翌日、朝の目覚めが全く違ってきますよ。

 

 

Oct 26, 2013

「ありがとう」は最も美しい日本語

「ありがとう。」と素直に言える人は、人の心に小さな灯をともす人。

一番感謝をしないといけないのは自分の肉体です。
「私の肉体さん、ありがとう」
この感謝の響きは、細胞のひとつひとつに伝わり、細胞はそれに応えようとしてくれるでしょう。
感謝の心は、バイブレーションを高め、相手と共鳴すること。
お互いの命といのちが響き合うこと。
それは地球とも、宇宙とも共鳴すること。
ありがとうは、有り難いから転じた言葉。
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