68回目の終戦記念日に寄せて
皆様、おはようございます。
今日は68回目の終戦記念日です。
皆様の抱く思いにも、様々なものがあると思います。
次の言葉を祖霊に捧げたいと思います。それぞれの立場で、命の花を散らしていった祖霊たち。
彼らの無念や悲しき思いには計り知れないものがあることでしょう。
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今ここで、手を合わせて「ありがとうございます」と言うことは、
彼らの魂に、無明の中で明かりを灯すこと。良きことも悪しきことも、より良い時代を切り拓くためのステップ。
今があることは彼らの尊き命の礎の賜物。お盆に祖霊のおみたまを導くほおずきの灯りのように、
私たちの祈りは彼らに届き、きっと彼らの闇を照らすことでしょう。
そして、私たちが生きる日本の平成の世を見護ってくれると信じています。
今日は、新しい時代へ向かう第一歩。心から、ありがとうございます。
そして、私たちには、次の世代へ語り継ぐ使命があるのです。
皆様、今日も喜びに満ち溢れた一日をお過ごしくださいませ。
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盆棚には茄子と胡瓜
皆様、おはようございます。
「御仏も 扉をあけて 涼みかな (正岡子規)」
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旧暦のお盆(盂蘭盆会)の季節ですね。
盆棚を飾って、昨日は迎え火で祖霊をお迎えされたことと思います。
盆棚は、地域や宗派によって違いがありますが、
ご先祖様に感謝をし、ご接待する心をもって、自分のできる限りをすればよいとされています。
豪華さや立派さは問題ではないということです。
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「牛・馬」胡瓜と茄子にきびがらで足をつけて飾りますね。
これは、ご先祖様に胡瓜の馬で早くきていただき、
茄子の牛でゆっくり帰っていただくための霊の乗り物です。
極楽浄土と現世の行き帰りに使うものです。
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「水の子」胡瓜と茄子をみじん切りにして洗米と混ぜ、水を張った蓮の葉に盛ったものをお供えすことがありますね。
これは、無限の食べ物をお供えするという意味があるそうです。
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「ほおずき(鬼灯)」は提灯の形をしているので、
ほおずきの提灯が先祖の霊がお盆に帰ってくるときの道を照らすと考えられてきました。
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今日、私たちがこうして肉体を持って、つつがなく暮らしているのも、ご先祖様あってのことだと思います。
こういう節目節目にご供養することは、自分や家族を愛することでもありますね。
今日も平和で佳い一日をお過ごしくださいませ。
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瀬をはやみ
皆様、おはようございます。
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ (崇徳院)
この川の流れは激しく、速い。
岩にせき止められた水がその岩に当たって割れてしまうほどだ。
たとえ、あなたと今別れたとしても、水の流れが下流で再びゆき合うように、
いつの日か、あなたと必ずまた逢おう。
きっとだ。
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人を愛する思いはいつの世も変わらぬもの。
いくさや災害など、時の運命によって、世界中どれほどの人々がこのような思いを抱いてきたことでしょう。
日本人として、祖霊に祈りを捧げたいと思います。
皆様、今週もたくさんの喜びが訪れますように。
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人形浄瑠璃(文楽)
更に歌と歌との間には「合の手」が挿入され、名人芸的な技巧も発達しました。
江戸、大阪、京都では、それぞれの特色ある浄瑠璃が発達しました。「人形浄瑠璃」だけではなく、歌舞伎芝居と結びついたり、音楽本位の「歌浄瑠璃」になったりしました。
また、「歌浄瑠璃」から、一中節、豊後節、この豊後節から常磐津節、清元節などが生まれました。現在舞踊でも有名な常磐津、清元も、ここから誕生したのですね。(つづく)
勝道上人と天海大僧正〜日光4〜
「谷を見下ろせば院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」と、
連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が当時の日光山の繁栄ぶりを紀行文「東の津登」で著しています。
鎌倉時代、室町時代、京の比叡山に次ぐ寺格を朝廷から得るほど、日光山は繁栄しました。
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しかし、その後、豊臣秀吉が天下統一のため小田原を攻める際、日光山の僧兵が北条氏に味方したために寺社領のほとんどを秀吉に没収され、衰退していったのです。
これほど変わり果てた日光山がどうして今日のようになれたのか、とても興味深い出来事です。
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中禅寺湖の中にある小さな島には、勝道上人と天海大僧正の遺骨が納められています。
日光にとってこの二人は大変重要な人物なのですね。
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徳川家康は全天台宗の実権を握りつつあった天海大僧正に出会いました。
それは日光山を蘇生させる運命的な出会いでもありました。
日光衰退からわずか30年で日光は蘇生していきます。
天海は日光の重要性を家康に語っていきます。
家康は、「自分の一周忌後、日光山に小堂を建て関八州の鎮守として祀るように」と、天海に遺言しました。
そして、「東照大権現」として、家康は東照宮から江戸を見守ることになりました。
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天海大僧正は呪術的にも優れた洞察力と天才的な運命学の知識を持っていて、家康も高く評価していたといいます。
日光は江戸の真北、「北」は生命をコントロールする気が生ずる場所。
古代中国の天道思想も取り入れて、家康が大権現として、北方から北極星を背に江戸城を守るというわけです。今の皇居は家康から守護されているのですね。
天海は、江戸城構築にも、八門遁甲(はちもんとんこう)の秘法により子孫繁栄の方位を使ったり、鬼門にあたるところには神社を建て、法を修したといいます。
江戸城から見ると、日光も鬼門にあたるところです。
東照宮を建てたというのも納得できます。
日光市内でも、勝道上人と天海大僧正がそれぞれ表と裏の鬼門を守護していると言われています。
世界中から大勢の観光客を日光に迎えて、この二人の偉人は今どういう思いで見ているのでしょうか。
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奇跡の橋「神橋」〜日光3〜
奈良平安時代、朝廷が支配していた頃、白河の関以北は外国だったのですね。
日光のある下野は、外国である蝦夷地との境界線にありました。
ここは東北地方の蝦夷鎮めの場所として、下野は重要な地点でした。
朝廷の命令によって蝦夷を平定するために東北地方に赴くという役職が「征夷大将軍」でした。
坂上田村麻呂も日光山に戦勝祈願に赴き、その後、東北全土を平定したと言われています。
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蝦夷地を遥かに見渡せる男体山。
修験道の山でもありますが、東北地方に向かって、たくさんの銅鏡や銅印が山に埋められていたという、特別な祈りがされていた場所でもあります。
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日光山開祖の勝道上人(しょうどうしょうにん)。
蝦夷地を遥かに見渡せる男体山の登頂を、苦行練行の末、17年の歳月をかけて3回目の登頂で果たしたのも、男体山で仏法を修して国家鎮護を祈願をするという目的もあったのですね。
現在、世界遺産になっている日光東照宮をはじめとする二社一寺がある場所は、当時ジャングルのような密林でした。
上人一行が男体山の登頂を果たすため、まず大谷川(だいやがわ)という急流を渡った時、深紗大王(じんじゃだいおう・毘沙門天)が2匹の蛇を放ち、蛇の背中から止ま山菅が生えてきて、橋になってくれたおかげで、彼らは歩を進めることができたという逸話が残っています。
それが「神橋(しんきょう)」です。
別名「山菅の橋」「山菅蛇橋」と言われています。
この橋も世界遺産に登録されています。
芭蕉「おくのほそ道」〜日光2〜
日光は、かつて米軍が避暑地として接収したほど、自然に恵まれた美しい景色を有するところです。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で日光に立ち寄ったことを書いています。
芭蕉が最も敬愛した西行法師の遺跡をたどって奥州路の歌枕を訪ねることを目的として、門弟河合曾良とともに約半年間の旅を出ました。
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江戸の芭蕉庵を出発して、宇都宮、鹿沼から日光へ。
そして、奥州の入り口、白河の関を目指します。
「あらたうと 青葉若葉の日の光」
日光東照宮を参拝した芭蕉がその威光の素晴らしさを褒めたたえています。
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三代将軍家光公が寛永の大造替をしたことによって、現在の豪華絢爛たる東照宮を造営しました。
みちのくへの旅の途中に日光へ寄って、日光の名所旧跡を訪ねる文人が多かったようです。
日光は関東の北端。そして、みちのくの旅の入り口、白河古関趾で多くの歌が詠まれ、みちのくへと向かうのです。
みちのくへの旅は、多くの文人にとって、まだまだ未知の世界のようでした。
竜頭ノ滝上流から中禅寺湖へ
奥日光 中禅寺湖〜日光1〜
今日光の中禅寺湖湖畔に来ています。
特急スペーシアで、東京から2時間足らずで到着するここ日光。
朝夕だけではなく、とにかく涼しいですね。
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いつもそうなのですが、日光の山並み、森林が見えてくると、圧倒的な迫力を感じます。
この聖なる霊気のような、気の素晴らしさ。何とも形容しがたいものがあります。
中禅寺湖の西の端にある、美しい浜辺「千手が浜」。
千の手を持つとされる観音菩薩に由来します。
日光開山の祖・勝道上人が難行苦行の末、17年も歳月をかけて男体山の登頂を果たしました(782年、桓武天皇の頃)。
そして美しい中禅寺湖の浜辺「千手が浜」で勝道上人が観音菩薩を感得して、「仏の浄土を見た」と言ったそうです。
ここに「観音の浄土」をつくらなければならないという思いから、勝道上人は日光を観音の聖地として開山したと言われて、今日に至っています。
男体山(二荒山・ふたらさん)登拝の大祭は、7月31日から8月7日までです。
仙台七夕まつりに寄せて
東北の夏祭り、今熱く燃えています。
本日8月6日から8日まで、仙台で七夕まつりが行われます。
五節句の一つ、七夕は、古くは「棚機(たなばた)」と書いて、
現在の「たなばた」の発音はこの名残りであると言われています。
七夕は、織女と牽牛がこの日だけ天の川をはさんで会うことを許されるという、
古代中国の「星伝説」や、
この7月7日に女性が技芸の上達を祈れば叶えられるという中国の「乞巧奠(きっこうてん)」という星祭りに由来します。
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また、日本古来の習慣、この稲の開花期に水害や病害虫に遭わないように稲の収穫の無事を祈るため、
乙女「棚機女(たなばたつめ)」が機屋で田の神の神衣を織ると豊作をもたらすとされ、
盆の初めに乙女が水浴などで穢れを祓うという習俗がありました。
これらが結びついて、七夕の習慣が出来上がったとされています。
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仙台藩主伊達政宗公も、婦女子文化のためにと、七夕の行事を早くから奨励していたそうです。
そして、伊達家は代々七夕の行事を行ってきたのですね。
五色の色紙や短冊に詩歌を書いて、吹流しなど様々な飾りを婦女子が作り、
笹竹に結びつけて軒端に立てて、牽牛織女の星をお祭りしてきました。
仙台では6日の晩にこのお祭りをして、7日の暁には広瀬川の評定橋より笹を流す風習だったそうです。
明治になって、七夕の行事は現在のように陽暦8月6日の宵へ変わり、
近年は8月6日から8日までの3日間行われるようになりました。
伊達藩政時代から脈々と受け継がれてきた仙台七夕まつりは、
市民のお祭りとなって、町ぐるみで伝統を守り創意工夫することで、
大きな行事になっていきました。
昨今、一層多くの人々の思いで支えられているこの仙台七夕まつりが
、今年もたくさんの温かい思いで支えられますように、心から祈ります。
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東北六大祭り
「東北三大祭り」(「青森ねぶた祭」(8月2日~7日)、
「秋田竿燈まつり」(8月3日~6日)、
「仙台七夕まつり」(8月6日~8日))がいよいよ始まりますね。
東北の夏が熱く燃えます。
これらに「山形花笠祭り」(8月5日~7日)を加えて「東北四大祭り」、
さらに「盛岡さんさ踊り」(8月1日~4日)と「福島わらじまつり」(8月2日~3日)を加えて「東北六大祭り」と言われます。
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8月2日から7日まで行われる「青森ねぶた祭」、弘前でも同様に「弘前ねぷた」(1日から7日まで)が開催されています。
「ねぶた祭」の見所は、何と言っても巨大な灯籠ですね。
夕刻、灯籠に灯がともされて、太鼓や笛、鉦(かね)の「ねぶた囃子」が聞こえてくると、東北の夏祭りが始まったなあというエキサイティングな気分になってきます。
「ラッセーラー、ラッセーラー」の掛け声とともに踊り跳ねる「跳ね人(はねと)」を先導に灯籠が町中を練り歩きます。
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最終日の7日は、ねぶたを川や海に流す行事が行われます。
これは、夏の農作業中に襲う眠気を人形(ひとがた)や灯籠に移して川などに流した「眠り流し」に由来すると言われています。
元々お盆の「灯籠流し」や七夕祭りから始まったといわれる「ねぶた祭り」。
東北の熱い夏、応援しましょうね!