奈良平安時代、朝廷が支配していた頃、白河の関以北は外国だったのですね。
日光のある下野は、外国である蝦夷地との境界線にありました。
ここは東北地方の蝦夷鎮めの場所として、下野は重要な地点でした。
朝廷の命令によって蝦夷を平定するために東北地方に赴くという役職が「征夷大将軍」でした。
坂上田村麻呂も日光山に戦勝祈願に赴き、その後、東北全土を平定したと言われています。
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蝦夷地を遥かに見渡せる男体山。
修験道の山でもありますが、東北地方に向かって、たくさんの銅鏡や銅印が山に埋められていたという、特別な祈りがされていた場所でもあります。
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日光山開祖の勝道上人(しょうどうしょうにん)。
蝦夷地を遥かに見渡せる男体山の登頂を、苦行練行の末、17年の歳月をかけて3回目の登頂で果たしたのも、男体山で仏法を修して国家鎮護を祈願をするという目的もあったのですね。
現在、世界遺産になっている日光東照宮をはじめとする二社一寺がある場所は、当時ジャングルのような密林でした。
上人一行が男体山の登頂を果たすため、まず大谷川(だいやがわ)という急流を渡った時、深紗大王(じんじゃだいおう・毘沙門天)が2匹の蛇を放ち、蛇の背中から止ま山菅が生えてきて、橋になってくれたおかげで、彼らは歩を進めることができたという逸話が残っています。
それが「神橋(しんきょう)」です。
別名「山菅の橋」「山菅蛇橋」と言われています。
この橋も世界遺産に登録されています。
「神橋」