おもてなしの言葉1「お待ちしていました」
「もてなし」の丁寧語は「おもてなし」。
この言葉はオリンピック招致のプレゼンの時の滝川クリステルさんによって、
本当に有名になりましたね。
「お」「も」「て」「な」「し」のジェスチャーも流行しました。
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「おもてなし」は「表がない」ことに通じます。
「裏表がない心」を表します。
ということは、真心を持って相手を歓待する誠意をそのまま表現することになります。
それは日常のごく普通の心のあり方にも通じるように思います。
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お客様を迎える時の言葉
「お待ちしていました。」
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お茶のお稽古に出向いて、師匠の前で「今日もよろしくお願いします。」と
一礼するときに、いつも 「お待ちしていました。」と、
この言葉をおっしゃってくださいます。
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ああ、待っていてくださったのだなあと、毎回この言葉を聞くたびに感激します。
電車を乗り継いで、やっと辿り着いた師匠の家で最初に語りかけてくださる言葉。
「お待ちしていました。」
素敵なおもてなしの言葉です。
人は真心のこもった言葉によって癒されますね。
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江戸の女子の成人式には「髪上げ」「島田髷」
成人式、おめでとうございます。
振袖姿を拝見するのは、楽しいものです。
一人前の大人として認められる日ですね。
かつての男子は元服として15歳ごろ、女子は髪上げとして13歳ごろ行われる儀式でした。
大人になるのを機に、髪型も着るものも変りました。
身も心も引き締まる思いだったのでしょうね。
男子は、元服の時に、幼名を改めて大人の名前をつけました。
暮れになると「忠臣蔵」のドラマや映画をテレビで放映しますが、
大石内蔵助の長男大石主税(ちから)が元服するときには、
良金(よしかね)という名前に変わりました。
討ち入りの元禄14年(1701年)12月に元服をして、義盟に加わったのです。
そして間もなくの討ち入りでした。
昔の武士の覚悟には言葉も出ません・・。
胸がいっぱいになりますね。
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さて、江戸では、男女ともに3歳までは坊主頭に剃っていて、
3歳の「髪置き」から髪を伸ばし始めたといいます。
男の子も女の子も坊主頭だったなんて・・。
男子は、15歳頃、成人式である「元服」で、仮親が前髪を剃ります。
女子は、12歳から16歳ごろの成人式である「髪上げ」で、
それまでの桃割れなどから島田髷(まげ)に結い上げます。
「十六島田」とも言われるように、
16歳頃から嫁入り前の娘が結うのが「島田髷」でした。
江戸時代には、武家、町人、粋筋などの階層や、女子ならば未婚、既婚、後家などみ見た目ではっきりと分かったといいます。
娘は結婚が決まると、「お歯黒」を初めてつけます。
人妻になったら、口は真っ黒、髪は「丸髷」にします。
子持ちになると、「眉剃り」をします。
「丸髷」「眉なし」「真っ黒な口元」と、娘は見た目も大きく変身していきます。
二十歳前後だというのに、かなりふけた印象になってしましますね。
当の本人もショックを受けたり、周りの人からからかわれたりもしたそうです。
お歯黒をつけて娘は野暮になり(柳多留)
こんな川柳も生まれました。
幕末にやってきた外国人は、日本の素晴らしさを賞賛していましたが、
「お歯黒」だけはどうも好きにはなれなかったようですよ。
今に生きている私たちは幸せですね。
江戸の将軍も長屋の熊さん八つぁんも食べたお雑煮とは
皆様、新年明けましておめでとうございます。
年末に準備したお餅。
おせち料理とともにお餅をいただくのが日本の習わしです。
お餅を美味しく召し上がっていますか。
お正月のお餅は、
都会では餅屋(米屋)に注文したり、
スーパーでパックになっているものを買ってきたりします。
昔はペッタン、ペッタンとおじいちゃんが餅をついて、
おばあちゃんがそばで水をひょいと入れていたものです。
あの音は心地よくって、つきたての餅を納豆餅にしたり、
あんこで食べるのが美味しかったです。
ふかしたての餅米も、食べると胃を悪くするよと言われながら、よくつまみ食いしました。
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かるがると上る目出度し餅の杵 高浜虚子
お正月にいただくお餅には、格別の思いがありますね。
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今と違って、江戸の人たちは前の年の12月15日までに餅つきの申込みをしていました。
また、この日までに予約をしないと、お正月の餅は買えなかったということです。
江戸も初めは関西のように丸餅でしたが、
せっかちな江戸っ子は、一つ一つ丸める手間を嫌って、一挙にのして、
包丁で四角く切るようになったようです。
長屋は一つの共同体です。
大家さんから見れば、店子は子ども同然。親代わりのようなものです。
門松だけではなく、お正月用品もおせち料理も共同購入しました。
大家さんの采配で、長屋の住人全員協力したそうです。
年末または年始に、大家さんは店子にお年玉を配りました。
それはお金ではなくて、鏡餅でした。
鏡餅が丸い形をしているのは、お年玉の玉に似ているとか、
健康であるために心臓の形に似せたということです。
餅つきができるのは江戸市中では大きな商家だけで、
庶民は大家さんにもらった丸餅を台所に飾って正月をお祝いします。
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江戸のおせちもお雑煮も質素でした。
おせち料理は日持ちのする煮しめで、酒の肴でした。
お雑煮もシンプルで、
醤油のおすまし汁に、
焼いた四角い餅と小松菜に油揚げ(または鶏肉かかまぼこ)が少しだけでした。
どうも徳川家康公が
「貧しかった頃を忘れずに、年の初めにはこれを食べよう」と言ったことに始まって、
代々将軍家ではこのお雑煮を食べていたそうです。
江戸中もそれにならって、同じようにシンプルなお雑煮を食べていました。
諸国から大勢の人がやってきて集まっていた江戸で、それぞれの郷土料理としてのお雑煮も食べていたようですが、
一方で、将軍と長屋の住人が同じ質素な小松菜入りのお雑煮を食べて初春を祝していたなんて、
ちょっと微笑ましい光景ですね。
ちなみに小松菜は、小松川(現:東京都江戸川区)から、五代将軍綱吉公が命名したということです。
皆様も、お雑煮をたんと召し上がれ。
江戸っ子も大好きだった七福神巡り
皆様、おはようございます。
いよいよ本年の大晦日を迎えましたね。
一年間本当にお疲れ様でした。
海の向こうからやってきた幸せを呼ぶ神様たち、「七福神」。
中国やインドからやってきた神様たちですが、唯一日本の神様は恵比寿天(えびすてん)です。
福徳や商売繁盛を授ける神様ですね。
たくさんいる福の神からラッキーセブンの七神になったのは室町時代です。
中国の水墨画に描かれた、竹林に遊び、清談にふける「竹林の七賢」の影響を受けたといわれています。
七福神へのお詣りは江戸中期以降に流行しました。
文人、俳人の初春の風雅な遊びとして始まったそうです。
「恵比寿(えびす)・大黒天(だいこくてん)・弁財天(べんざいてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・布袋(ほてい)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)」を七福神とし、金銀財宝を積んだ宝船に乗って訪れるという絵柄が江戸で大流行となりました。
最も古い七福神は、不忍の弁財天、谷中感応寺の毘沙門天、谷中長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿・大黒天・布袋、田端西行庵の福禄寿です。
江戸っ子たちは、おせち料理の腹ごなしをかねて、有名無名にかかわらず、市中の七福神を捜しながら散策を楽しんだのです。
江戸で人気の神様は、
上方資本の多い江戸の店では、商売繁盛の恵比寿・大黒天。
江戸で生まれ育った職人衆はおおらかな布袋さん。
布袋さんは、いつもにこにこ、美味しそうにお酒を飲んで、子どもたちには好かれている。
しかも弥勒菩薩の化身ともいわれ、最後の最後に民衆を救いにくるという神様です。
そこが江戸っ子好みだったのですね。
武士が好んだのは、煩悩や邪気を払い去り、福徳を授ける毘沙門天でした。
どの神様があなたはお好きですか?
皆様も年明けに七福神巡りはいかがでしょうか。
本年もこの 和のたしな美ぶろぐ をお読みくださいまして、
ありがとうございました。
来年はもっともっと素晴らしい年になりますように。
よいお年をお迎えくださいませ。
日本の「働く」の本当の意味は
おはようございます。
今日も“和のたしな美塾”®から
たしな美人「和の雑学」をお届けいたします。♡
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「働く」って、職業として仕事をするとか、
生計を維持するために稼ぐという意味なのだとばかり思っていませんか。
日本と西洋とでは「働く」ことの意味合いが元々違っていたようです。
西洋的な「働く」という発想から見ると、
「働く(Work)」の反対語は「遊ぶ(Play)」ということだといいます。
もともと労働階級が資産家に時間を拘束されて「働く」という考え方からきているものなのです。
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日本では、「働く」は、
「はたらく(傍楽)」と書いて、
周囲(傍)の人を楽にする、楽しくするという意味があったと言われています。
日本の「働く」には、
奉仕するという意味合いが含まれていて、
苦しいもの、拘束されるという概念はなかったのですね。
日本と西洋との「働く」ことの意味合い、こんなにも違うことに気づかされます。
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先日、野中ともよさんという以前NHKのニュースキャスターをされていた方のお話をお聞きした際に、
お父様から「働くというのは、傍(はた)の人を楽にする、楽しくするものだと教わった。」と、
おっしゃっていました。
そういう教育をお父様から受けてこられたのだと、感銘を受けました。
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明治期から、日本は西洋文明の影響で思想的にも大きな影響を受けて、
物質的にも豊かな経済大国として、先人の努力によってここまでやってきました。
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ところが、東日本大震災、そして熊本大震災を経て、あれ、何か違うと、気づき始めてきたのではないでしょうか。
命のはかなさと生きることの意味を考えざるをえなくなりました。
心の中に、人のために自分ができることを何かしたいという「奉仕」の心が強く芽生え、意識されてきたように思います。
まさに「傍(はた)を楽にする」、自分の命を使って周囲の人に喜びを与える生き方は、
これからの世界をリードする「働く」意味でもあると思います。
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限りあるこの命を大切に使っていきましょうね。
今日もお元気に心晴れやかな一日をお過ごしくださいませ。
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足ゆび健康講座「今年の足指・足裏を振り返って」
【明日の足ゆび健康講座のお知らせ】
皆様、おはようございます。
いつもご覧いただき、ご参加いただきまして、
ありがとうございます。
明日、12月15日(木)13:00~16:00
「今年の足指・足裏を振り返って」と題して
進めていきたいと思っています。
その後、17:30より「忘年会をもんじゃ」で行います。
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なお、新年会は、
平成29年1月21日(土)15:00〜19:00
落語家百圓師匠の落語2席
和菓子とお抹茶
江戸風家庭料理
(詳細は後ほど)
です。ぜひご参加くださいませ。
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12月15日(木)13:00~16:00の写真
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もんじゃの忘年会
リメイク講座〜手作りのカード入れ〜
【本日12/1 リメイク講座のご報告】
皆様、こんばんは。
本日の「リメイク講座」
高橋祐子さん、田中京子さん
ご参加ありがとうございました。
お二人ともお手持ちの帯で素敵な名刺入れ(カード入れ)が出来上がりました。
それぞれ個性的ですね。
講師の 中山幸恵さん、 仁後圭音子さん、
今日もご指導ありがとうございました。
おかげさまで、簡単に、美しく仕上がりましたね。
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後半は、高橋さんの
「浴衣の着付と日舞のお稽古」の時間。
浴衣の着付のおさらい。
日舞のお稽古『東京音頭』1番。
次回は、襦袢の着付やお太鼓結びもやってみましょう。
襦袢、帯をお持ちください。
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次回は、年明け1月ですね。
日程調整をしましょう。
江戸歌舞伎〜顔見世興行
12月といえば、歌舞伎の「顔見世興行」が行なわれますね。
「顔見世」というのは、江戸時代期には歌舞伎の重要な年中行事の一つでした。
向こう一年この新しい顔ぶれの役者で興行を行いますという、お披露目だったのです。
旧暦11月1日(現在12月ごろ)、
芝居は出演する役者によって収益が左右されるため、
10月半ばに江戸三座(中村座・市村座・森田座)の興行主が集まって、
各座に出演する役者を決めていたということです。
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「顔見世や 一番太鼓 二番鶏」
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映画やテレビ、インターネットなどがない時代、江戸庶民は芝居に熱狂しました。
歌舞伎芝居は、夜も明けやらぬ一番鶏が鳴く前から始まりました。
夜明けの一番太鼓とともに入場の準備が始まるため、前夜のうちにお弁当を作って、
夜道に提灯をぶら下げて、又は駕籠をあつらえて、芝居町に向かいました。
江戸時代には、旧暦12月は「芝居の正月」ともいましたが、幕末に無くなり、
現在では「顔見世興行」という名称だけが残っているのですね。
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着物を着て、たまには歌舞伎見物に出掛けてみましょうか。
男の中の男〜八丁堀のだんな
おはようございます。
今はテレビや映画で時代劇を余り見なくなりましたよね。
捕物帳で、「与力(よりき)」「同心」という言葉を聞いたことがあると思います。
江戸の町奉行の下で働いていた人たちです。
町奉行といえば、大岡越前や遠山の金さんでおなじみですね。
「与力・同心」は、「上司を補佐する」という意味の役職で、
町奉行だけではなく、ほかの部署にもたくさんいたのだそうです。
それが捕物帳で有名になって、町奉行の配下の役人という呼び名になったようです。
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よく「八丁堀のだんな」という呼び名が時代劇で出てきます。
これは、江戸八丁堀に組屋敷があったからなのです。
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町与力は、江戸の人たちが選んだ「男の中の男」に入っていました。
「男の中の男」とは、与力、力士、火消しの頭の三職です。
町与力はの仕事は裁判、同心は捜査をそれぞれ担当し、江戸の治安を司っていました。
町与力の定員は50騎、25騎ずつ南北の奉行所に配属され、
それに対して下総(しもふさ)にまとめて一万石の知行所が与えられました。
1騎200石でした。
同心の定員は南北50人ずつで合計100人。
幕末の動乱期には140人ずつ合計280人でした。
俸給は14石ほどで、ほかに手当やほうびが与えられたということです。
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100万都市の大江戸で、これだけの少人数の役人たちで江戸を守り抜くことができたのは、
江戸の町の支配がしっかりしていたということも挙げられますが、
同心が使った手先・小者、岡っ引き(御用聞き・目明かし)、下っ引きの働きが
大きかったからだと言われています。
ちなみに銭形平次は岡っ引きです。
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末端の銭形平次のような人たちの働きが治安の維持に一役かっていたわけです。
与力と同心の見た目の違いは、
与力は十手と刀を並べて差していましたが、
同心は必ず後ろに差したということです。
同心は、テレビでは目立つように前に差しています。
今日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
楽しい一日をお過ごしくださいませ。
大江戸 八百八町
皆様、おはようございます。
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男だったら一つにかける
かけてもつれた 謎をとく
誰が呼んだか 誰が呼んだか
銭形平次
花のお江戸は 八百八町
今日も決め手の 今日も決め手の
銭が飛ぶ ♪
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ご存知の方も多いと思います。
舟木一夫が歌った「銭形平次」のテーマ曲です。
「花のお江戸は 八百八町」とありますね。
江戸幕府が始まった当初町は三百余町だったものが、
江戸中期には千町を超えていたそうです。
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「隣の町よりも良い町にしよう」という気概をみんなが持っていました。
お祭りの時、神輿を担いだり、山車(だし)を曳いて練り歩く時には、
それぞれの町が張り合っていたそうです。
ただ豪華絢爛ばかりを競うのではなくて、
その心根には、
うちの町ではいつも弱い者を助けてよい町づくりをしているという気概をそれぞれに持って、
張り合っていたようです。
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ひもじい思いをしてやせた子がいたり、体が不自由で困っている老人がいたとすると、
「おまえんとこじゃ、弱いもんをちゃんと面倒見てやってねえんじゃないか」と、
軽蔑されました。
それぞれ個人的には引っ越しも多い、人の出入りも多い長屋では、それぞれが深く相手の身の上に立ち入らない、そんなルールをつくっていたようですが、
お祭りとなると、話は別なんですね。
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江戸には、「福祉」や「ボランティア」という言葉もなかったそうです。
必要なかったのでしょう。
お金持ちの商人は町のためにお金を出す、力のある人は力を貸す、
病気で困っている人には手助けをするというのが普通にできていたのです。
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今の時代は、どうしても心配事、トラブルなどを自分で抱え込んでしまう、
そうせざるをえない状況がいっぱいありますよね。
住まいも個を確立したものに変わってしまい、隣や地域の住人とのコミュニケーションも
意識がすっかり変わってしまいましたね。
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ほんわかした江戸の町、大江戸八百八町。
「隣は何をする人ぞ」の意味合いや意識が今とはまったく異なっていたのですね。
あこがれちゃいますね。
本日もお読みくださってありがとうございました。
幸多きに一日になりますように。
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