佃村・大和田村の漁師たちが家康献上のために用意した御菜魚(魚介類)は、白魚でした。
家康は、殊の外、白魚が好物だったということです。
白魚は、体長約10センチメートルほどの魚で、シラスとは異なる、サケ目シラウオ科の無色半透明の硬骨魚です。
かつては淡水の混じる江戸内湾域に数多く生息していたとのことです。
白魚は透き通って見えるために、脳の形が三葉葵(徳川家の家紋)に見立てられ、徳川家では大変珍重されたということです。
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白魚を献上するための箱「献上箱」というものが現存しています。
朱漆塗りの内箱に入れた白魚を黒漆箱に納めて、担ぎ棒を通して江戸城まで運びました。
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白魚献上箱
「御膳 白魚箱」「佃嶋」の文字がある朱漆塗りの内箱を、
「御本丸」「御膳 御用」の文字がある黒漆塗りの外箱に納め、
担ぎ棒を通して江戸城まで運んだ。
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漁は夜間に行われ、「御本丸」「西本丸御用」などと記されら高張提灯(たかばりちょうちん)を船の先端に掲げて、篝火をたいて行われました。
水揚げされた白魚は漁が終わった早朝に江戸城へ運ばれました。
白魚20尾を並べた小箱25箱を「御本丸」「西本丸御用」と記された漆塗りの献上箱に納めて(一回に約一升分の白魚)、
しかも、運搬は「通行構いなし」の、大名行列よりも優先されたといいますから、
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別格の取扱いだったということがお分りいただけると思います。
江戸名所図会 佃島(斎藤月茛ほか編)
白魚漁を行う四手網。
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漁法は、通常用いる四つ手網(十字に組んだ竹で張り上げた方形の浅い袋状の網)とは異なり、
御膳白魚漁に限って建網(水中に袖網を敷設し、魚群を袋網に導く定置網)で捕獲されました。
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佃島漁師の漁場は、中川・江戸川河口付近(後に千住大橋から上流の豊島村までの間)と定められ、
これとは別に、浅草川から江戸湾周辺に漁場をもって御膳白魚漁を行う小網町の白魚役漁師も存在しました。
このため、御用漁をはじめとする漁場紛争がたびたび起こりましたが、
家康のお墨付と称される「御免書」を理由に、佃島漁師は常に有利な立場に立ち得ました。
(中央区主任文化財調査指導員 増山一成氏)
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東都名所佃島入船ノ図 (歌川広重(初代)) 国会国立図書館
奥のほうに佃島が見える。
左手には白魚漁を行う四手網が見える。
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次第に白魚の捕獲量が減少する時がやってきました。
彼らは白魚に代わって別の小魚に切り替えてほしい旨を陳情してきました。
明和8年(1771)には、現物納入から年40両の金納に変わりました。
これで江戸期の実施的な白魚献上は終わりを迎えたのです。
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ところが、明治14年(1881)、宮内庁と徳川家への献上の慣例が復活しました。
徳川家から佃島漁業協同組合へ感謝状が贈られています。<
江戸時代から現代へとこうして熱い想いが受け継がれていることに感動するとともに、
心がほんわかするような、連綿と続く人の心の温もりを感じざるをえません。
感謝の思いを大切にすることを教えられているような気がします。