白魚漁は、毎年11月から3月までの、白魚が産卵のために河口をさかのぼる春先のシーズンでした。
江戸に佃島ができるまで、佃村漁師一行がが江戸へ滞在したのは、この5ヶ月間だけだったのです。
白魚漁のシーズンオフには、故郷の摂津国佃村に帰りましたので、故郷と江戸との往復は大変なことだったと推察されます。
.
彼らが江戸の、後に佃島と命名した場所は、江戸湊の漁に出るには最適な場所だったのですが、干潟で、土地としては不完全で造成する必要があり、しかも高波や高潮の時には水没してしまう恐れのある土地でした。
.
ところが、彼らの故郷である摂津国佃村は、神崎川と左門殿川の中洲であり、
故郷と佃島は立地条件がよく似ていたところが、彼らにとって親しみやすかったのではないかと、
言われています。(芝浦工業大学工学部建築学科教授 志村秀明氏『月島 再発見学』)
.
新撰増補大坂大絵図 (1691年)
佃田村となっている。
.
神崎川と左門殿川沿いの浜であったところには、今ではマンションや工場、倉庫が立ち並んでいるといいますが、
マンションの一つに上って神崎川の上流を見ると、佃村が今も中洲であることがよく分かるそうです。
しかも、この風景は、東京の佃である大川端リバーシティから隅田川の上流を見る眺めとよく似ているようです。
.
.
千船駅から細い道を東のほうへ歩いていくと、田蓑神社が路地の先に突然に現れ、田蓑神社境内には三方から入る入り口があるといいます。
陸からの参拝口だけではなく下船しての参拝口があったようです。
路地のような狭い道のある市街地であり、参拝口も陸と船からというのも両者は非常に類似しています。
佃村漁師一行は、故郷の田蓑神社が鎮座する町並みを思い描きながら、築島していったのではないでしょうか。
路地が生まれたのも、故郷と無縁ではないように思えてきます。
故郷の景色を懐かしく思い出すのは、だれしも同じですね。
.
田蓑神社