おはようございます。
ジョセフ・ヒコの生涯のお話。続きを記していきます。
今日も友人の真下 吉弘さんのご好意によって、詳細な事実をこうしてお話できることに感謝します。
この前の記事二つはこちらになります。
http://derivejapan.com/blog/hikozou/
http://derivejapan.com/blog/joseph-hiko1/
播磨の少年ヒコは13歳の時に江戸見物の帰り、栄力丸で故郷へ戻る途中、
遠州灘で暴風雨に巻き込まれて遭難したのです。
52日間の太平洋漂流後、彼ら17名はアメリカのサンフランシスコに到着することになりました。
江戸見物の帰りに、漂流してアメリカに行こうとは・・運命ですよね。
遭難船の船長は、アメリカに行く途中のハワイで病没しました。
彼らは、朝の日の出とともに起きて、全員で太陽に向かって柏手を打ってお天道様を拝したということです。
その姿に救難船の全員が畏敬の念をもって見ていたと、
ヒコは自叙伝に書き記しています。
さすが、日本の先人たちは太陽に手を合わせ、それを見る人にも感動を与えていた
のですね。
サンフランシスコに上陸したのは12名でした。
10名は上陸後半年ぐらいして中国経由で日本に帰りましたが、
当時の日本の鎖国の厳しさから半数は中国にとどまり、5名ほどが日本に帰国できました。
中国に滞在したうち3名は行方不明となったようです。どの人も運命に翻弄されたような感じですね・・。
アメリカに残ったのは、ヒコとあと一人です。
この人はペリー提督の軍艦で帰国し日本に引き渡されるはずでしたが、
鎖国の厳しさを聞き知っているので、本人は体を震わして上陸したくないと哀訴したために、
アメリカに連れ戻され、コックとして一生涯アメリカで暮らすことになったそうです。
ヒコはアメリカ文化を吸収したいという向学心に燃えていました。
時は、ペリー黒船来航直前。
日本人のヒコらを国交開始のきっかけに利用したいと考えていたアメリカの意向に
添いたくないと考えたヒコは、またアメリカに戻ることを決意しました。
丁度この頃、税関長であり、貿易商のサンダースにヒコは見い出されました。
サンダース家の人々に可愛がられ、高等教育を受けて、ヒコ自身も大きく成長していきました。彼の誠実さ、真面目さ、勤勉さ、どれも日本人らしいよさですね。
サンダースは秘書としてヒコを伴って財界や政界の要人と会っていきました。
そんな折に、ピアス大統領、ブキャナン大統領やリンカーン大統領に正式に紹介されて、会うことができました。
日本人としてアメリカ大統領に会見できたのは、ヒコが初めてでした。
中でも、リンカーン大統領と会見した時、彼の優しさと人としての魅力、大きさに触れ、生涯忘れえぬ人となったのです。
リンカーンは、大きな手を差し伸べて、ヒコと握手を交わし、日本のことをいろいろと尋ねたそうです。
そして、彼は日本とアメリカの架け橋になろうと決意しました。
それから3年後、リンカーンは帰らぬ人となってしまいます。
彼の落胆はいかばかりだったでしょうか・・・。
日本は尊王攘夷で揺れている時代でした。
ヒコはアメリカに帰化していましたから、外国人とみなされ、
日本で横浜の領事館で通訳として従事していましたので、命の危険にもさらされました。
この続きは、また次回にしますね。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
佳き一日をお過ごしくださいね。