小林一茶(1763~1827)の人生は平坦なものではなかったのですね。
3歳で実母と死別し、8歳から継母に育てられました。
この継母は冷たい女性で、一茶は随分いじめられたそうです。
父親がその一茶の姿を見ていられなくなって、15歳のときに、彼を江戸に出したのです。
江戸に出て、10年間ぐらいの一茶の行状については、ほとんど分かっていません。
おそらくこれといった職にもつかず、放浪生活のような状態で俳諧に専念したのではないかと言われています。
25歳のころ、葛飾派の竹阿の門に入り、竹阿の没後、26庵菊明と号して判者となりました。
29歳で初めて帰省。ついで父の代参として京に上り、また西国を旅しました。
40歳のとき、父の死にあって、再び帰省。
父の死後、十数年にわたり、遺産を巡って異母弟とあらそいました。
その後ようやく解決して、故郷に安住の地を得て、52歳で初めて妻を得ました。
彼は幼児期から逆境に育ったため、複雑な性質をもち、
俳諧も多くは自ら学びとったものだったようです。
俗語や方言を駆使して、強者への反抗と弱者への共感を織りなす
人生詩的傾向の強い句を多く作ったのですね。
こうして一茶の生涯を見てみると、彼の作った句がさらに愛おしくなりますね。
夕月や 鍋の中にて 鳴くたにし
能なしは 罪もまたなし 冬籠