お正月遊び〜歌留多(カルタ)〜

皆様、こんにちは。

お正月の子どもたちの遊びといえば、凧揚げ、羽根つき、そして歌留多(カルタ)でしたね。

「お正月」の歌詞にも、凧揚げや独楽などが出てきますよね。

今はどれもこれも見なくなりましたね。

 

明治、大正時代は、お正月のカルタ会が、若い男女が楽しめる数少ない機会だったそうです。

30人ほどの若い男女が集まって、二手に分かれてカルタ会は行われました。

小倉百人一首の歌がるたを使って、源平の二手に分かれて競い合ったということです。

 

会場内は次第にみなが熱狂してきて、顔は紅潮し、

女性は白粉がはげてきたり、髪がほつれたり、着物が乱れたり。

会場は熱気にあふれ、歓声が上がったり、笑い声が響きました。

胸ときめかせて楽しんだカルタ会だったのですね。

明治30年代のカルタ会の様子を尾崎紅葉が『金色夜叉』でその様子を描いています。
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カルタは、もともとポルトガル語です。それが「歌留多」になりました。

カルタには、いろはガルタ、歌ガルタ、花ガルタ、トランプなどがあって、

遊びやばくちに使う絵や文字が書かれている長方形の札のことを指しています。

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小倉百人一首が歌ガルタとして使われるようになったのは江戸時代です。

歌を上の句と下の句に分けて、上句を読み上げて下句をとるという方法で、

男女が入り交じって楽しむようになりました。

百人一首が競技とされたのも、そのころです。

初めは、形も大きな字札を積み重ねたカルタを、そこに居合わせた人々が読んで、

札に合わせてただ順々にめくっていくだけの遊びでした。

カルタは、百人一首で、草書だったりいろんな書体で書かれていたものが

やがて標準カルタとして制定されていきました。

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元々は色紙に描かれていたものです。

鎌倉の歌人藤原定家が、一首ずつ嵯峨中院の障子の色紙の形と同じものに書いたのが始まりです。

嘉永元年(1235)のことでした。

藤原定家自身が古今の歌人の歌を百首選んだのですね。

 

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どこから百種を集めたかといいますと、

古今集、新古今集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、千載集、

新勅撰集、後撰集、続後撰集、新後撰集、詩歌集

です。

どこかで聞いたことがあるものばかりですね。

こうして並べてみると、圧巻です。

 

また百人一首を覚えたくなりました。