「谷を見下ろせば院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」と、
連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が当時の日光山の繁栄ぶりを紀行文「東の津登」で著しています。
鎌倉時代、室町時代、京の比叡山に次ぐ寺格を朝廷から得るほど、日光山は繁栄しました。
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しかし、その後、豊臣秀吉が天下統一のため小田原を攻める際、日光山の僧兵が北条氏に味方したために寺社領のほとんどを秀吉に没収され、衰退していったのです。
これほど変わり果てた日光山がどうして今日のようになれたのか、とても興味深い出来事です。
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中禅寺湖の中にある小さな島には、勝道上人と天海大僧正の遺骨が納められています。
日光にとってこの二人は大変重要な人物なのですね。
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徳川家康は全天台宗の実権を握りつつあった天海大僧正に出会いました。
それは日光山を蘇生させる運命的な出会いでもありました。
日光衰退からわずか30年で日光は蘇生していきます。
天海は日光の重要性を家康に語っていきます。
家康は、「自分の一周忌後、日光山に小堂を建て関八州の鎮守として祀るように」と、天海に遺言しました。
そして、「東照大権現」として、家康は東照宮から江戸を見守ることになりました。
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天海大僧正は呪術的にも優れた洞察力と天才的な運命学の知識を持っていて、家康も高く評価していたといいます。
日光は江戸の真北、「北」は生命をコントロールする気が生ずる場所。
古代中国の天道思想も取り入れて、家康が大権現として、北方から北極星を背に江戸城を守るというわけです。今の皇居は家康から守護されているのですね。
天海は、江戸城構築にも、八門遁甲(はちもんとんこう)の秘法により子孫繁栄の方位を使ったり、鬼門にあたるところには神社を建て、法を修したといいます。