江戸歌舞伎〜顔見世興行
12月といえば、歌舞伎の「顔見世興行」が行なわれますね。
「顔見世」というのは、江戸時代期には歌舞伎の重要な年中行事の一つでした。
向こう一年この新しい顔ぶれの役者で興行を行いますという、お披露目だったのです。
旧暦11月1日(現在12月ごろ)、
芝居は出演する役者によって収益が左右されるため、
10月半ばに江戸三座(中村座・市村座・森田座)の興行主が集まって、
各座に出演する役者を決めていたということです。
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「顔見世や 一番太鼓 二番鶏」
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映画やテレビ、インターネットなどがない時代、江戸庶民は芝居に熱狂しました。
歌舞伎芝居は、夜も明けやらぬ一番鶏が鳴く前から始まりました。
夜明けの一番太鼓とともに入場の準備が始まるため、前夜のうちにお弁当を作って、
夜道に提灯をぶら下げて、又は駕籠をあつらえて、芝居町に向かいました。
江戸時代には、旧暦12月は「芝居の正月」ともいましたが、幕末に無くなり、
現在では「顔見世興行」という名称だけが残っているのですね。
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着物を着て、たまには歌舞伎見物に出掛けてみましょうか。
成田屋〜市川海老蔵の『鳴神』
当世、坂東玉三郎と市川海老蔵が出演する歌舞伎は大当たりです。
歌舞伎座の12月公演の夜の部は、市川家のお家芸、歌舞伎十八番の内『鳴神(なるかみ)』の通し狂言が上演されています。
海老蔵の演技を見ていると、父十二世市川團十郎の面影と声色がだぶってきます。
まるで亡き父が息子を見守っているかのように思えてきます。
何度も何度も目頭が熱くなりました。
市川家の屋号は「成田屋」です。
大向こうから「成田屋」と、ちょうどいいタイミングで掛け声がかかります。
その間合いの心地よいこと。
江戸時代の初め、寛永のころ、庶民階級は苗字を許されなかったため、
屋号を褒め言葉として用い、互いに屋号で呼び合ったということです。
俳優を屋号で呼ぶようになった一番初めは、この歌舞伎の市川家です。
初代市川團十郎が下総に住み、成田山新勝寺の不動尊を深く信仰していたことから、
「成田屋」と呼ばれるようになりました。
海老蔵が市川家のお家芸を伝承し、その中でも「成田屋」の由来になる不動明王を描いた通し狂言『雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』を今般上演することは、
歴史ある市川家の芸の継承と父團十郎の跡を継ぐことへの責任感など、さまざまな思いが交錯していることを痛感します。
不動明王の不動心。それは市川家の芸の中に息づいています。
市川家を応援せずにはいられません。
和風ウォーキングの効用
和風ウォーキングってナンバ歩きのことです。
「ナンバ歩き」という言葉を知らなくても、
阿波踊りや盆踊り、沖縄のエイサー、花笠踊りはご存知だと思います。
右手右足、左手左足を同時に動かす歩き方のことです。
意外に知られていないですね。
日本は明治期から、西洋式の行進や軍隊の歩き方が導入されましたので、
いつの間にか忘れられてしまいました。
日本人は、もともと農耕民族でした。生きるための糧を得るために畑を耕すとき鍬や鍬などの道具を使っていました。鎌を持つとき、右手右足が同時に働きますね。こういう動きを長年の間に培ってきたのでしょう。
それとは違って、西洋は狩猟民族でしたから、生きるための糧を獲る方法も違っていましたね。自ずと所作も異なっていったと思われます。
「ナンバ歩き」は現代では能、歌舞伎、日本舞踊、盆踊り、相撲など探せば随所に見られますね。
世界陸上の末續慎吾選手、マラソンの高橋尚子選手も、実はナンバ走法でした。
体をねじらず、手の振りは前へ小さくして重心は低くするなどの工夫がされていました。
江戸時代の飛脚や忍者が用いていたのがこのナンバ走法でした。
省エネで、しかも瞬発力のある動きです。
昨今、能の活性化にとってもよいと注目されている「ナンバ歩き」。
認知症や脳の障害の予防にも効果があるそうです。
詳しくはまた後日・・・。
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本日は、和風ウォーキングと日本語48文字カタカムナの学びです。
東大寺「お水取り」から誕生した歌舞伎舞踊「韃陀(だったん)」
おはようございます。
あちらこちらで桃の節句を祝うお雛様の人形が飾られ、美しさにほんわかとした春を感じますね。
「桃の節句」。この言葉を聞いただけでも、心が浮き立ちますね。
草木がいよいよ生い茂る弥生月。
今月もどうぞよろしくお願いします。
奈良東大寺の「お水取り(修二会)」といわれる行事が3月1日から14日まで、二月堂本堂で行われています。
「奈良のお水取りが終わると春がくる」と、関西の方々にとって、この「修二会」は春を迎える行事なのですね。
「修二会」は752年から千二百五十年以上にわたって行われ、一度も絶えることがなかったという法会です。
「十一面悔過(じゅういちめんけか)」という行が行われます。
二月堂本尊である十一面観音菩薩に、万民に代わって、僧侶が懺悔の行を勤め、
天下泰平や五穀豊穣万民の平安を祈願するものです。
神道、仏教、民間信仰が入り交じっているような感がしますね。
十一面観音の須弥壇を飾る和紙の良弁椿の花拵え(はなごしらえ)
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「お水取り」の儀式では、13日午前1時半ごろ、井戸から汲み上げる「お香水(こうずい)」を供えるのだそうです。
「お松明(たいまつ)」は練行衆が宿所から二月堂に上堂するときに足下を照らす道明かりです。
満行に行われる「韃陀(だったん)」は、行のクライマックスで、参詣者も沸き上がるのです。
このとき、松明の火の粉をかぶると厄を祓い、無病息災を得ると言われています。
よくテレビのニュースでも見かける場面ですね。
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この満行に行われる「韃陀(だったん)」。
大松明を抱える練行衆とお香水の器を抱える練行衆が向かい合って走り、飛び跳ねるというクライマックスを見た、先代の尾上松緑さんが「お水取りを舞踊化したい」という思いから発案したのが、
歌舞伎舞踊の「韃陀(だったん)」です。
この舞踊、テレビでちらりと白黒の映像が放映されたときには、本当に鳥肌が立ちました。
どうしても生の舞台を見たくて、京都の南座で見たときには、感動しました。
主人公の僧侶集慶と、“煩悩”の象徴として登場するこの青衣(しょうえ)の女人(にょにん)。
“荒行に疲れた集慶の心の幻影”として女人を捉え、青衣は“煩悩”の象徴。
ストーリーについては、東大寺に伝わる文書をヒントにして創作されたということです。
幻想的な雰囲気と艶やかな情感。
クライマックスの、集慶が大勢の練行衆と共に見せるダイナミックな群舞は圧巻です。
一度是非ご覧くださいね。
本日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
素晴らしい弥生月をお過ごしになられますように。
今月も幸あれ。
新歌舞伎座〜こけら落とし公演〜
吉原は男性の街
江戸庶民の娯楽、
歓楽街と言えば、女性は芝居町、
男性はそれに加えて吉原です。
江戸吉原は、京の島原、大坂の新町と並ぶ幕府公認の遊郭でした。
ある意味でお金さえあれば、お大尽とも崇められ、江戸時代のあらゆる社会的制約から免れた自由な世界でした。
日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にあった吉原 (元吉原) は、明暦の大火によって消失したため浅草 ( 三谷 ) に移転しました。
浅草のほうを新吉原(略して吉原)と呼びます。
江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」とも言われます。
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いわば社交場でもあり、ファッション情報の基地でもあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしていまいた。
一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けていました。
日夜、歌舞伎曲が鳴り響くところでもあり、今日の邦楽、邦舞も、廓文化との関わりも深かったのです。
新春を寿ぐ歌舞伎狂言「助六」も吉原を舞台にしたものですね。
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人々が人里離れた吉原まで行くには、主に柳橋から猪木舟 ( チョキ舟・屋根のない、猪の牙のように先とがった細長い形の小舟 ) をチャーターします。
柳橋の船宿で、武士は深編笠を借り、僧侶は法衣を脱ぎ、手代は木綿を絹に着替えて、猪木舟に乗り込みます。
浅草の今戸の船宿で舟を降りたら、船宿の若い衆が提灯を持って出迎え案内され、いよいよ吉原に到着です。
遊客の胸の高鳴り、ワクワク感が目に浮かぶようです。
深川節です。
行くのが 深川通ひ
あがる桟橋子
コレワイサノサ
飛んで行き度い
コレワイサノサ
ぬしのそば駕籠で、サッサ
行くのが吉原通ひ
おりる衣紋坂
コレワイサノサ
いそいそと 大門口をながむれば
深い馴染で
コレワイサノサ
お楽しみ
庶民の娯楽だった歌舞伎見物
今でこそ歌舞伎は、日本の古典芸能と言われ、ちょっと堅苦しい感じがしますが、
江戸時代には、庶民の娯楽、芸能だったのです。
江戸には、芝居町という芝居小屋を中心とした芝居茶屋、食べ物屋、土産物屋などがあり、
歌舞伎興行に関わる人々も住んでいるところでした。
男性の歓楽街は吉原、女性の歓楽街はもっぱら芝居町だったのです。
その歌舞伎の楽しみ方は現代人の想像をはるかに越えたものだったようです。
歌舞伎芝居は、夜明けの一番太鼓とともに入場が始まるため、
前夜のうちに、お弁当を作って、夜道に提灯をぶら下げて、
又は駕籠をあつらえて、芝居町に向かいました。
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新歌舞伎座がオープンして
東京の歌舞伎座が、今年の四月、こけら落とし公演をしました。
新しい劇場がオープンし、新しい歌舞伎の幕開けですね。
歌舞伎の三大名作は、
「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」といわれています。
その理由として、
一つ目は、三本とも日本の歴史の中で著名な、日本人にとって忘れがたい悲劇の英雄たちを扱っていることです。
「忠臣蔵」の大石内蔵助 (劇中では大星由良之助) 、
「菅原」の菅原道真、
「千本桜」の源義経です。
二つ目は、戯曲として非常に高い完成度を持っていることです。
(歌舞伎でも人形浄瑠璃でもそうです。)
三つ目は、様式性が強く伝承しやすい義太夫狂言だったということです。
つまり、「義太夫狂言」という義太夫節による人形劇として書かれた戯曲を、歌舞伎に取り入れて役者が歌舞伎として上演するので、「型物」として伝承しやすかったのです。
この「三大名作」は「時代物」と呼ばれます。
歴史をベースにして、作者の大胆な創作による歴史のパロディ劇でもあり、
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今年のNHKの大河ドラマは新しい時代を切り開く女性新島八重の物語を描いていますね。
なかなか魅力的な女性ですが、この「三大名作」に日本人の原風景を探しにいってみたいと思います。
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
十二代目市川團十郎さんのこと
昨日は、十二代目市川團十郎さんの本葬の模様をテレビのニュースでやっていました。
ご覧になられましたか。
團十郎さんと言えば、市川家のお家芸、歌舞伎十八番の内『暫』がとても印象的でした。
江戸元禄時代のおおらかさが舞台いっぱいに広がります。
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本舞台の上で悪人方が善人方をやっつけようとしているまさにその瞬間、
主人公の権五郎(ごんごろう)は花道から「しばらく、しばらく」と言って、正義の味方として馳せ参じるのです。
江戸時代のスーパーマンとはこういったものかと感心するような出で立ちです。
團十郎さんは、最後に「色即是空」の文字が入った言葉を残していたのをテレビで見ました。
空の境地になると、自我欲望、小さい肉体の自分が本当の自分ではないということ分かり、本源の自分である、仏性・仏さまが現れてくるのだと、お釈迦様が言っています。
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常に己の心を磨き、芸を磨き高め上げていた團十郎さん、