月島
Mar 23, 2020

心に残る・未来に残したい記憶

中央区文化推進事業助成

「佃島・月島百景〜心に残る・未来に残したい記憶」

http://tsukishima100.com/

今年度制作の動画が次々とホームページに掲載されているところです。

2月15日の「ビデオ上映と講演会・上映会」の際に上映したダイジェスト版も

掲載いたしました。

多くの方々にご協力をいただきましたこと、深く御礼を申し上げます。

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[動画] 佃島百景~第1集~
「2019年度 上映会&講演・意見交換会」上映版

この動画は、2020年2月15日に月島区民館で開催した「佃島・月島百景 上映会&講演・意見交換会」にて上映したものです(一部文字修正、写真追加)。

2019年度(令和元年度)は、「佃島百景~第1集~」として、4名の方にインタビューを行い、それを約50分に編集しました。

他では見ること聴くことのできない貴重なエピソードや資料も盛り込まれています。
ぜひご覧ください。

佃公園の桜

佃公園の桜

[動画] 月島百景~第2集~
「2019年度 上映会&講演・意見交換会」上映版

この動画も、2020年2月15日に月島区民館で開催した「佃島・月島百景 上映会&講演・意見交換会」にて上映したものです(一部文字修正、写真追加)。

2019年度(令和元年度)は、「月島百景~第2集~」として、14名の方にインタビューを行い、それを約50分に編集しました。

他では見ること聴くことのできない貴重なエピソードや資料も盛り込まれています。
ぜひご覧ください。

河津桜

月島区民センター前の河津桜

忘れてはならないものがたくさん散りばめられているように思います。

ご覧いただいて、ご感想などいただければ幸いです。

 

 

Jul 16, 2017

月島の歴史3〜西仲商店街〜

西仲通りは月島名物の露店から始まった

 

今月島二番街のほうは大規模な再開発が行われています。

トタンに覆われ、いつも見慣れていた各商店の二階部分の看板も取り壊されてしまいました。
写真を撮っておけばよかったと、今は悔やまれます。
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「もんじゃ麦」の奥に「佐藤フライ」というレバーフライが大変美味しい店がかつてありました。
このフライ屋さんは大分前に店じまいしました。
お店に入ると、おじさんが「何枚?」と尋ねてきます。「5枚」とか「10枚」とか答えて、フライが揚がるのを待っている間、
そこにある大きな急須の出がらしのお茶を飲んで椅子に座って待ちます。
揚げたてをそこで食べるもよし、持ち帰るもよし。
揚げたてが一番美味しい。しかも、からしをたっぷりとつけて。
このレバーフライの美味しさはもう伝説となっています。
この店も、かつては西仲商店街で露天商から始まり、内店としてこの街に根付いたのでした。
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 右側の看板が「もんじゃ麦」
その奥にかつて「佐藤フライ」があった。

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月島が明治25年に築島され、明治30年ごろから自然発生的に西仲通りに商店街が誕生していったようです。

石川鉄工所など機械工場の町となった月島はその労働者の町だったのです。

彼らは収入は少なかったので、
露店で売られているものは、すべてが安かったようです。

しかも、二番街と三番街の間には、映画館や寄席があって、
深川、築地、明石町からも大勢の人がやってきたといいますから、銀座とは違った庶民的な商店街として発展してきたのです。

もんじゃ焼きは平成に入ってからブームとなりましたが、元々は駄菓子屋さんで売っている子どもが食べる安いおやつだったのです。

決して生活水準は高くなくても、いつも人が集まり、活気に溢れていた街でした。

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西仲通りの露店の賑わいを、『月島調査』(大正8年(1919))ではこんなふうに表現しています。

「雨が降らないかぎりは毎夜道路の中央に露店が立ちならび、夕方になると買い物の主婦層を対象に、一丁目から二丁目あたりに魚貝類や野菜を売る露店が開いた。
日没ともなると、五丁目の角あたりに、工場から帰ってくる労働者を労って焼き鳥屋や肉フライ、おでん屋など、安価な飲食店が開く。
そして夜になると、南北を結ぶように各種の露店が開かれ、午後8時半から10時ごろまでの間がもっとも賑わいを見せた。
そして11時ごろになると、両側の商店も店を閉め、露天商たちは潮が引くように帰路につき、西仲通りは静寂に包まれた。」

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戦後は闇市の形成によって露店自体も禁止され、月島地域の工業の衰退と労働者人口の減少も拍車をかけることとなって、
月島名物の露店は再現されることはなくなりました。

昭和63年(1988)に商店街にアーケードが施され、歩車道の区分もされて現在に至っています。

庶民的な街月島、そしてもんじゃ焼き、庶民の生活から生まれ出てきた街であり、文化ですね。

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ちょっと嬉しいことは、「もんじゃ麦」三号店でレバーフライを作って売り出しました。
この味が、あの「佐藤フライ」のレバーフライの味によく似ているのです。
形は違いますけど。
でも、懐かしい味です。昭和の味を彷彿とさせてくれます。

皆様もご賞味あれ。

現在仮移転のため清澄通り沿いの路面店で販売しています。

 

Jul 12, 2017

月島の歴史2〜近代化と江戸長屋〜

嘉永6年(1853)のペリー来航は、この月島地区にも大きな影響を与えました。

幕府は西欧諸国の軍艦に対抗するために佃島の南に砲台をつくったのでした。
その場所こそ月島の発祥の地です。
明治になって月島という島はそこから築島されていったということです。

ペリー来航は月島という地に無縁ではない出来事でした。

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写真左側に佃島砲台があったとされる。

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安政元年(1854)に水戸藩洋式造船所が石川島に建設され、
明治維新を迎えた明治元年(1868)に、この造船所が幕府から明治新政府の手に移りました。

この造船所は、その後横須賀に移転となり、明治9年(1876)に平野富二によって民営造船事業へと変わっていきました。

昭和15年(1940)に完成した勝鬨橋は、跳開(ちょうかい)可動橋だったことで有名ですが、この橋が完成したことで月島地域の交通は飛躍的に向上し、工業発展に大きく寄与したのです。

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 勝鬨橋

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日清(明治27〜28年)・日露戦争(明治37〜38年)を契機にして、

東京の産業の近代化は、この月島にも波及し、工場が次々と建設されていったのです。

月島(一号地)が造成されたのが明治25年(1892)ですから、月島は産業の近代化のために作られた町のようにも見受けられます。

石川島には石川島造船所(現IHI)が、月島にはその下請け工場が建設され、月島には石井鉄工所や月島機械などの工場など、機械・器具製造工場が多く存在することになったのです。

第一次世界大戦が始まる大正2年(1913)ごろまで、多くの工場や倉庫が建設され、その労働者のための住宅を大量に用意する必要性に迫られたのです。

そこで生まれたのが長屋です。

「一町街区」

元々、民間事業者が参入してきて、工場や倉庫の大規模な施設用として、「一町街区」という真ん中に三間道路を通して、短冊形の間口十間ずつで六つに区切るという街割りが月島では作られていったのです。

六間道路と三間道路が碁盤の目状に整然と通っています。

ところが、この月島に多くの労働者を住まわせるための住宅として、この「一町街区」の町、月島が使わるようになりました。

短冊形の敷地の中央に、幅が約一間から九尺(1.8〜2.7メートル)の路地をもうけました。

そこに二軒長屋から四軒長屋が建てられていきました。
一戸の間口はほぼ二間(3.6メートル)。路地は、民間事業者が作った私道です。

これが今の月島の長屋であり、路地のある風景ということなのです。

月島1丁目から4丁目の中に路地は100本近くあるといいます。この街の長さは4キロメートルほどです。

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三間(5.4メートル)道路

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昭和13年(1938)の市街地建築法の改正によって、建物の敷地に接する道路の最低幅は4メートルに引き上げられました。

したがって、月島のような路地が作られることはもうなくなってしまったのです。

大正時代の道路幅に関する法律が適用になった月島のような路地は、現在では法改正によって、日本ではもう見ることができなくなりました。

月島で路地のある生活が残っているというのは、日本でも貴重なことなのだと、

改めて思います。

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Jul 10, 2017

月島の歴史1〜明治なのに江戸が残る〜

もんじゃ焼きで有名な月島。
いつの間にか、月島のメインストリートの「西仲商店街」は「もんじゃストリート」と呼ばれるようになって、久しいです。

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月島(一号地)は、明治25年(1892)に埋め立てられました。

初めは「築島」と呼ばれたのです。
それが三日月の形をしている島ということで、「月島」と銘々されました。

続く2年後の明治27年(1894)、勝どき(二号地)がつくられ、

更にその2年の明治29年(1896)、新佃島の埋め立てが完成しました。

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『東京市十五区番地界入地図』東京市京橋区全図
明治40年(1907)発行

 

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明治になって、旧佃島の南側に月島、勝どきが、東側に新佃島が宅地化されてきたのです。

近代日本が、1868年の明治維新を起点として、
欧米列強に負けじと富国強兵を唱え、近代日本を目指す国家戦略の中で、
この月島地域もその波の中に飲み込まれていきました。

 

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それでも、とても不思議なことに、
この月島という町の街割りは、江戸の方式を採用していることです。

六間(10.8メートル)道路が碁盤の目のように通っていて、
「一町街区」を基本とした街割りになっているのです。

関東大震災の後に建設された長屋は、
東京大空襲にも逢うことなく、奇跡的に残っています。
だいぶ老朽化した長屋も多く見受けられますが、
懐かしい人情を感じさせる「路地文化」が今も息づいているところなのです。

 

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Jun 26, 2017

わが町月島〜築島125周年〜

10年前にNHKで朝の連続テレビ小説『瞳』が放映されました。
 
「月島が出てるねえ」
「懐かしいねえ」と、
 
あの頃は母や親戚から電話がかかってきたものです。
 
しかも、瞳ちゃんの住んでいたところは、我がサロンの辺りという設定でした。
よく観光客に声をかけられたものです。
 
「あの〜、この辺に瞳ちゃんのうちはありませんか」と。
 
あれは架空の番地だったのです。
 
佃島の住吉さんのお祭りはここ月島でも相当の熱の入れようです。
 
3年に一度の熱く熱く燃える夏です。
 
ドラマの中でも八角神輿を担ぐ威勢の良さが描かれていました。
 

命がけの神輿担ぎ。

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家康の時代に、摂津国佃村から森孫右衛門一族と漁民33名がやってきたのが佃島造成の始まりです。
 
海の神様として漁師の信仰を集めた住吉の社から分祀されたのが住吉神社です。
 

歌川広重の江戸名所百景「佃しま住吉乃祭」にも住吉神社の祭礼の幟が描かれているほど、歴史のあるお祭りです。

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月島は明治25年に築島され、今年で125年目を迎えます。
 
今この月島も大きな変貌を遂げようとしています。
 
それは中央区の再開発の大波です。
 
関東大震災後に建てられた長屋と路地は、
 
東京大空襲にも遭わずに、奇跡的に残っている町並みです。
 
京都の町並みのように、碁盤の目状になっているところは、日本広しといえども、京都と月島しか存在しないといいます。
 

消えゆくこの町並みを、今「路地文化継承」という視点から改めて考え直してみたいと思います。

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Jun 25, 2017

6/24 和の月さろん「衣礼と江戸文化」第二回

昨日の『和の月さろん』(衣礼と江戸文化)第二回

本当に最後まで盛り上がりましたね。
ご参加くださいました皆様、ありがとうございました。

純庵先生の江戸話、面白かったですね〜〜!!

家康公が白魚大好きだったとは。佃と月島のお話。
江戸の繁華街、浅草と両国のお話、そして歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお話と役者の屋号。
まあ、話題は多岐にわたり、面白おかしく、笑いの渦でした。

明治時代に築かれた月島は、江戸の街並みを残す佃島の風情を長屋と路地に残しています。
月島の路地文化、この街を文化遺産にしようではありませんか。
議員さんも駆けつけてくださいました。
ありがたいですねえ。

梅田さんの桑茶クッキー、酵素ドリンクにアロマオイル満載の「心身養生香座」。美味しく、リフレッシュ。

菅谷さんの進化する着装の実践「3分間着物」もお見事でした。

懇親会も食べきれないほどの魚仁のお料理などなど。
お買い物してくださった皆様、ありがとうございました。

次回は7月29日の浴衣で楽しむ隅田川花火大会です。
どうぞお楽しみに〜〜!!