日本の「働く」の本当の意味は
おはようございます。
今日も“和のたしな美塾”®から
たしな美人「和の雑学」をお届けいたします。♡
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「働く」って、職業として仕事をするとか、
生計を維持するために稼ぐという意味なのだとばかり思っていませんか。
日本と西洋とでは「働く」ことの意味合いが元々違っていたようです。
西洋的な「働く」という発想から見ると、
「働く(Work)」の反対語は「遊ぶ(Play)」ということだといいます。
もともと労働階級が資産家に時間を拘束されて「働く」という考え方からきているものなのです。
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日本では、「働く」は、
「はたらく(傍楽)」と書いて、
周囲(傍)の人を楽にする、楽しくするという意味があったと言われています。
日本の「働く」には、
奉仕するという意味合いが含まれていて、
苦しいもの、拘束されるという概念はなかったのですね。
日本と西洋との「働く」ことの意味合い、こんなにも違うことに気づかされます。
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先日、野中ともよさんという以前NHKのニュースキャスターをされていた方のお話をお聞きした際に、
お父様から「働くというのは、傍(はた)の人を楽にする、楽しくするものだと教わった。」と、
おっしゃっていました。
そういう教育をお父様から受けてこられたのだと、感銘を受けました。
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明治期から、日本は西洋文明の影響で思想的にも大きな影響を受けて、
物質的にも豊かな経済大国として、先人の努力によってここまでやってきました。
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ところが、東日本大震災、そして熊本大震災を経て、あれ、何か違うと、気づき始めてきたのではないでしょうか。
命のはかなさと生きることの意味を考えざるをえなくなりました。
心の中に、人のために自分ができることを何かしたいという「奉仕」の心が強く芽生え、意識されてきたように思います。
まさに「傍(はた)を楽にする」、自分の命を使って周囲の人に喜びを与える生き方は、
これからの世界をリードする「働く」意味でもあると思います。
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限りあるこの命を大切に使っていきましょうね。
今日もお元気に心晴れやかな一日をお過ごしくださいませ。
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「糟糠の妻」って、聞いたことがありますか
おはようございます。
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ご自分の奥さんのことを
「糟糠(そうこう)の妻です。」
こんな紹介をする男性が今いらっしゃるでしょうか。
「愚妻です。」
と、へりくだってご紹介する男性は今も多くいらっしゃることでしょう。
「糟糠の妻」とは、「ぬかみそ女房」をもっと味わい深い意味合いで表現した、そんな言葉ですね。
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社会的地位のある人が、若いときに苦労をともにしてきた自分の妻を紹介するときなどに使う「糟糠の妻」。
この言葉は『後漢書』の「宋弘伝」に基づいたものです。
後漢の光武帝に宋弘という家来がいました。
宋弘はなかなかのハンサムだったので、光武帝の姉で未亡人の湖陽が、彼を見初め、脈があるかどうかを聞いてみてくれと、光武帝に頼んだということです。
そこで、光武帝は宋弘に「『身分が高くなったら友人をかえ、豊かになったら妻をかえる』というが、どう思うか。」と尋ねました。
すると、宋弘は、「いや、『貧賎の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず』というのが正しいと思います。」と答えました。
貧しいときに交わった友は忘れてはならず、貧しい生活をともにした妻は、正堂から下ろして離縁するようなことはしないと聞いていますと、答えたのです。
光武帝もこれを聞いてあきらめたそうです。
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「糟糠」とは、酒粕と米のぬかで、粗末な食事のことです。
毅然として応じた宋弘に、さすがの光武帝も、もうたじたじで何も言えなかったのでしょうね。
長年連れ添っていれば、いろんなことがあるのが夫婦だと思うのですが、
苦楽をともにしてきた妻へのいたわりと感謝の思いがよくにじみ出た言葉ですね。
間違っても、人前では「うちの恐妻です。」なんて、言わないでくださいね。
江戸っ子なら、「うちのかかあです。」と言ったでしょうけど。
本日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も爽やかな一日をお過ごしくださいね。
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「袖すり合うも他生の縁」とは
おはようございます。
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「袖振り合うも他生(多生)の縁」
「他生(多生)の縁」とは、
何度も生まれ変わるという輪廻転生(りんねてんしょう)の中での縁という意味です。
「他生(多生)」は「多少」とは書きませんね。
知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、
それは前世からの深い因縁があってのことだと、昔の人は考えました。
昔は着物を着ていましたから、
往来などで人とすれ違い際に袖が触れ合うというのも、ごく自然のことでした。
「袖」にまつわる言葉もたくさんありますね。それはまた後日に・・。
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どんな小さなこと、些細なこと、人との関わり、会話、交渉事、いやなこと、
すべて偶然に起こることではなくて、前世からの関わり、因縁によって起こることと考えていました。
今目の前にアブがいて、ブンブンいってうるさいなあと思っても、
これは前世では自分の親父だったかもしれない、自分も来世ではアブになるかもしれないと、
本気で江戸の人は思っていたそうです。
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Eriko Watanobeさんとの出会い。エルダーフラワーソーダで乾杯。
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現代では、ラッシュ時に袖が触れ合うどころか、ぎゅうぎゅう押し合いへし合いの中で、
そんな悠長な思いにひたってはいられないかもしれません。
でも、日常の中で偶然だと思っている出会いはたくさんありますね。
せっかくの出会いなのだから、あの時のランチ会で出会った人、
今日は気が進まないけれど、どうしても会わなければいけない人、
そういう束の間の出会いやお付き合いでも大切にしようということですね。
その場限りでも自分がこの人を大事にしよう、人間関係を円滑にしようと思ったら、
和やかな雰囲気になりますものね。
ハッピーな時間を過ごすことができます。
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Eriko Watanobeさんお勧めのハーブサラダ。
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昨日お会いした Eriko Watanobeさん。
ベトナムのホーチミン市在住の方です。
Facebookがなければ出会うことはなかっただろうと思う方のお一人です。
着物について精通されていて、着物の縫製に長くかかわってこられました。
「運針縫い」手縫いの大切さをおっしゃっておられます。
今はどんなにミシンや機械での縫製が可能になったとはいえ、
人の手の温もりで縫われた着物にはかないません。
それは着る人の肌が知っているのです。
素敵な出会いに心から感謝しています。
“和のたしな美塾” 同様、
人のこころを大切にしてお仕事をされていることにとても共感を覚えます。
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樋口一葉の『やみ夜』(1894)にはこんな引用があります。
「袖すり合うも他生の縁と聞くを、かりそめながら十日ごしも見馴れては他処の人とは思はれぬ」
赤の他人と思っていたけれど、いつの間にかその人に親しみがわいてきた。
この人とは実は深い縁があったのだろう。
「袖振り合うも他生(多生)の縁」とはよく言ったものだということでしょうか。
人との出会いの神秘。
心からありがとうございます。
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銀座イタリアン GIAG GIOLOにて。
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本日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も素晴らしい一日をスタートしましたね。
「おじゃんになる」も江戸生まれ
おはようございます。
昨日は「オシャカになる」の意外な語源を見てみましたが、
今日も江戸で生まれた言葉を見てみましょう。
「おじゃんになる」
聞いたことがありますか。
火事と喧嘩は江戸の華。
江戸は坂東の空っ風にあおられて、何度も火事になったところです。
火の手が上がると、真っ先にかけつけるのは火消したち。
すぐさまその火が燃えている建物の屋根に上って、纏(まとい)を立てます。
その炎が類焼しないように、火消しの男たちは命をかけて火を食い止めます。
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殊に纏い持ちは組一番の美形男子が選ばれます。
火消しの頭もこの纏持ちも、女性の憧れの的でした。
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町の自身番には火の見櫓(やぐら)があって、火事を発見すると半鐘を鳴らして、人々に知らせます。
その火の危険度によって鳴らし方が異なったそうです。
鎮火のときには「ジャン、ジャン」と、二度鳴らすのが決まりでした。
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火事はおさまったよという合図が、略されて「おじゃんだ」、
これで火がおさまった、これでおしまいになったという意味になりました。
現在では、物事がだめになったとか、中途でこの計画はだめになったという意味に転じていますね。
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このように火事の時の半鐘の音から生まれた言葉が「おじゃんになる」です。
ところで、江戸の女性たちはみんな火消したちに憧れていました。
鎮火をして、その場を引き上げて行く火消したちの煤だらけの姿、頭巾や被りものをとったときのその精悍な顔立ちにほれぼれしたそうです。
瞳をキラキラと輝かせて、見入ったのでしょうね。
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本日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も元気いっぱいの一日になりますように。
「つまらないものですが」
おはようございます。
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人にものを差し上げるときに、へりくだって言うとき、
「つまらないものですが」
と言いますね。
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人の家を訪問するときに手みやげを持参にして、
「もしよろしければ、どうぞ」の心を込めて言う言葉です。
最近は、「気に入っていただけると、嬉しいのですが」とか
「お口に合うかどうかわかりませんが」とか、言う人もあります。
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江戸時代に、参勤交代が制度化されて、江戸の知人に地元の産品を持参するのが習慣化しました。
その時に「土産」という言葉が誕生しました。
もともと、江戸には全国から珍しいものが集まってきましたし、
地方よりも品揃えが豊富で情報もたくさんありました。
その江戸に住んでいるあなたには満足がいかないかもしれなませんが、
あなたのためにこれを用意しましたので、是非受け取ってほしいのです。
こんな気遣いがあって、出た言葉です。
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双方が「もし、よろしければどうぞ」の気持ちを抱いて「つまらないものですが」の意味を理解した上で、使いたいものですね。
外国の方に尋ねられた時にも、ちゃんとその意味を説明できるようにしておきたいものですね。
いつもお読みいただきまして、ありがとうございます。
今日も素晴らしい一日になりますように。
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「あえか」〜素敵な言葉〜
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おはようございます。
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後ろに朝の歩み寄る時
(与謝野晶子)『晶子新集』(1917)
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☆若い女性に対して使われる言葉として。
容姿や気持ちが弱々しいさま。
か弱く頼りないさま。
きゃしゃで弱々しいさま。
☆美しいものの表現として。
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優しい響きの言葉です。
自然現象にも使われるようですが、
若い女性の美しさとしての表現は、新鮮な感じがしますね。
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このような女性らしさ、
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メイド・イン・ジャパンの外来語
おはようございます。
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今日はメイド・イン・ジャパンの普段使っている外来語について考えてみますね。
このまま、英語だと思って英語圏の人に話しても通じない言葉。
そんなご経験、おありだと思います。
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デッドボール・・・ヒット・バイ・ピッチ
ゲームセット・・・ゲームオーバー
ナイター・・・ナイト・ゲーム
ガソリンスタンド・・・ガス・ステーション
フロントガラス・・・ウィンド・シールド
オートバイ・・・モーターバイク
ココア・・・ホット・チョコレート
トランプ・・・プレイング・カーズ
ピーマン・・・グリーン・ペパー
ラムネ・・・レモネード
皆様も、是非考えてみてください。
今日もありがとうございます。
本日も暖かくしてお過ごしくださいね。
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「お」や「ご」をつける敬語とは
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おはようございます。
敬語の使い方は、なかなか難しいですね。
「お」も「ご」も、つけすぎると、不自然になってしまいます。
一つ、目安となるものをご紹介します。
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相手に関係する物事に対してはつけます。
「おからだ」「ご意見」「お電話」「お見せする」
外国からきた言葉や動植物、形容詞にはつけません。
「トイレ」「バケツ」「茄子」「胡瓜」「犬」「馬」 「美しい」「寒い」「可愛い」
これは目安です。
「おトイレ」「お茄子」「お美しい」と言う人もありますね。
これは丁寧語でしょうか。
でも、「おバケツ」「お胡瓜」「お犬」とは普通は言いませんよね。
「お犬さま」「お馬さん」「お馬の親子」というのはまたニュアンスが違ってきます。
皆様もぜひ身近なところで考えてみてください。
今日も暖かくしてお過ごしくださいね。
いつもありがとうございます。
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新しき酒は新しき皮袋に
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「新しき酒は新しき皮袋に」
新しい思想の内容を表現するには、それにふさわしい形式が必要である。
いつまでも古いものに固執していてはいけない。
これは『新約聖書』マタイ伝からとった言葉です。
古い皮袋に新しい葡萄酒を入れると、どちらも無駄になってしまうというところからきています。
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これをもじって、外見は古めかしいけれども、
内実は新しいもののことを
「古い皮袋に新しい酒を盛ったよう」と言ったりもします。
人は経験を経てもなお、内面はいつも柔軟でありつづけたいですね。
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☆ちょっと解説
旧約聖書の
Don’t put new wine into old bottles.[Matthew]《新しいぶどう酒を古い革袋へ入れな》
= We can’t put new wine in old bottles.
からとられたものです。
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聖書には、上のことわざの後に続けて、次の言葉があります。
Else the wine will burst the skins, and the wine perishes and the skins.[Matthew]
《さもなくば葡萄酒は革袋を破りさき、葡萄酒も革袋も無駄になるであろう》
新しい思想や内容を表現するには、それにふさわしい形式が必要である、という意味です。
ですから、「古き皮袋に、新しき酒を」の次に、
「入れるな」を補うと分かりやすくなりますね。
現実には、新しい内容が古い形式に入っている場合や、
また入れなければならない場合が多くありますので、
聖書のことわざをもじって、聖書の精神とは逆の意味で、
「新しい酒を古い革袋に(入れる)」という言葉として、よく使われます。
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