桃の節句に白酒を飲むのは、どうして?
おはようございます。
「少し白酒召されたか 赤いお顔の右大臣」
~童謡「うれしいひなまつり」より~
雛祭りにお雛様に供える「白酒」。
室町時代からあったという白酒とひな祭りが結びついたのは江戸時代からだと言われています。
江戸の町で、吉原の花魁や女性たちにも人気だったのが白酒です。
当初は清酒や濁酒をベースにしてつくられていたようです。これは酸味が強くなって余り美味しくなかったようです。
現在の白酒は、みりんや焼酎をベースにしていて、もち米と米こうじを混ぜて約1か月熟成させて、
石うすで米粒を細かに砕いて作るものだそうです。
殊に江戸時代の桃の節句には、この時期「白酒」は欠かすことのできない飲み物だったのです。
江戸時代に、白酒がそんなに人気だったとは、今では想像もできませんよね。
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「白酒売り」という商売は、江戸庶民にとても親しまれていたのです。
歌舞伎十八番の『助六』にも登場してきます。
白酒売りは、「山川白酒」と書いてあるうちわを持っていますが、これは当時の人気の京都の銘柄でした。
桃の節句が近づくと、「山川白酒」と記した桶を天秤棒でかついで、甘くて口当たりのいい白酒を売り歩きました。
吉原の花魁にも町の女性たちにも人気の「白酒売り」。
桶に乗せた箱には、ガラスの徳利が入っていたというのも、女心をくすぐる、そんな演出があったようです。
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桃の節句には、欠かせない白酒。
普段は酒屋では置かない白酒が、この時期だけ店頭に並んでいたのです。
桃の節句に白酒を飲む風習は、鎌倉河岸町豊島屋(現在の内神田二丁目2-1)が
発祥といわれています。
初代豊島屋十右衛門の夢枕に紙雛が現れて、白酒の製法を伝授したといいます。そのとおりに製造して、桃の節句の前に売り出したところ、それがものすごく売れたのです。
「山ならば富士、白酒ならば豊島屋」と言わしめるほど、評判の酒屋でした。
荒くて辛味があるが、精製されていてうまい。
桃の節句の前の2月25日に、白酒の大売り出しが行われ、江戸中から人が大勢やってきて、江戸の風物詩になったそうです。
何しろ人が山のように集まり、容易に買うことができないほどでした。
白酒はその日の昼頃には売り切れて、1400樽、売上げは数千両だったとか・・。
現代、これに匹敵する飲み物があるでしょうか。
この豊島屋(創業慶長元年・1596年)は、現在でも東京千代田区猿楽町で東京最古の酒屋として営業を続けています。
当時、お酒は「下りもの」として、上方からきたものだったのです。江戸には上方のような製造技術がなかったのですが、この豊島屋の白酒は群を抜いて美味だったのですね。
京都の白酒売りや江戸豊島屋の白酒。
江戸時代にタイムスリップして、見て、味わってみたいですね。
今日もお読みくださいまして、ありがとうございました。
佳き一日になりますように。
吉原は男性の街
江戸庶民の娯楽、
歓楽街と言えば、女性は芝居町、
男性はそれに加えて吉原です。
江戸吉原は、京の島原、大坂の新町と並ぶ幕府公認の遊郭でした。
ある意味でお金さえあれば、お大尽とも崇められ、江戸時代のあらゆる社会的制約から免れた自由な世界でした。
日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にあった吉原 (元吉原) は、明暦の大火によって消失したため浅草 ( 三谷 ) に移転しました。
浅草のほうを新吉原(略して吉原)と呼びます。
江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」とも言われます。
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いわば社交場でもあり、ファッション情報の基地でもあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしていまいた。
一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けていました。
日夜、歌舞伎曲が鳴り響くところでもあり、今日の邦楽、邦舞も、廓文化との関わりも深かったのです。
新春を寿ぐ歌舞伎狂言「助六」も吉原を舞台にしたものですね。
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人々が人里離れた吉原まで行くには、主に柳橋から猪木舟 ( チョキ舟・屋根のない、猪の牙のように先とがった細長い形の小舟 ) をチャーターします。
柳橋の船宿で、武士は深編笠を借り、僧侶は法衣を脱ぎ、手代は木綿を絹に着替えて、猪木舟に乗り込みます。
浅草の今戸の船宿で舟を降りたら、船宿の若い衆が提灯を持って出迎え案内され、いよいよ吉原に到着です。
遊客の胸の高鳴り、ワクワク感が目に浮かぶようです。
深川節です。
行くのが 深川通ひ
あがる桟橋子
コレワイサノサ
飛んで行き度い
コレワイサノサ
ぬしのそば駕籠で、サッサ
行くのが吉原通ひ
おりる衣紋坂
コレワイサノサ
いそいそと 大門口をながむれば
深い馴染で
コレワイサノサ
お楽しみ