月島の歴史2〜近代化と江戸長屋〜
嘉永6年(1853)のペリー来航は、この月島地区にも大きな影響を与えました。
幕府は西欧諸国の軍艦に対抗するために佃島の南に砲台をつくったのでした。
その場所こそ月島の発祥の地です。
明治になって月島という島はそこから築島されていったということです。
ペリー来航は月島という地に無縁ではない出来事でした。
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安政元年(1854)に水戸藩洋式造船所が石川島に建設され、
明治維新を迎えた明治元年(1868)に、この造船所が幕府から明治新政府の手に移りました。
この造船所は、その後横須賀に移転となり、明治9年(1876)に平野富二によって民営造船事業へと変わっていきました。
昭和15年(1940)に完成した勝鬨橋は、跳開(ちょうかい)可動橋だったことで有名ですが、この橋が完成したことで月島地域の交通は飛躍的に向上し、工業発展に大きく寄与したのです。
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勝鬨橋
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日清(明治27〜28年)・日露戦争(明治37〜38年)を契機にして、
東京の産業の近代化は、この月島にも波及し、工場が次々と建設されていったのです。
月島(一号地)が造成されたのが明治25年(1892)ですから、月島は産業の近代化のために作られた町のようにも見受けられます。
石川島には石川島造船所(現IHI)が、月島にはその下請け工場が建設され、月島には石井鉄工所や月島機械などの工場など、機械・器具製造工場が多く存在することになったのです。
第一次世界大戦が始まる大正2年(1913)ごろまで、多くの工場や倉庫が建設され、その労働者のための住宅を大量に用意する必要性に迫られたのです。
そこで生まれたのが長屋です。
「一町街区」
元々、民間事業者が参入してきて、工場や倉庫の大規模な施設用として、「一町街区」という真ん中に三間道路を通して、短冊形の間口十間ずつで六つに区切るという街割りが月島では作られていったのです。
六間道路と三間道路が碁盤の目状に整然と通っています。
ところが、この月島に多くの労働者を住まわせるための住宅として、この「一町街区」の町、月島が使わるようになりました。
短冊形の敷地の中央に、幅が約一間から九尺(1.8〜2.7メートル)の路地をもうけました。
そこに二軒長屋から四軒長屋が建てられていきました。
一戸の間口はほぼ二間(3.6メートル)。路地は、民間事業者が作った私道です。
これが今の月島の長屋であり、路地のある風景ということなのです。
月島1丁目から4丁目の中に路地は100本近くあるといいます。この街の長さは4キロメートルほどです。
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昭和13年(1938)の市街地建築法の改正によって、建物の敷地に接する道路の最低幅は4メートルに引き上げられました。
したがって、月島のような路地が作られることはもうなくなってしまったのです。
大正時代の道路幅に関する法律が適用になった月島のような路地は、現在では法改正によって、日本ではもう見ることができなくなりました。
月島で路地のある生活が残っているというのは、日本でも貴重なことなのだと、
改めて思います。
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