わが町佃島・月島
Jun 30, 2017

佃島の歴史2〜「佃島」の誕生〜

三河武士団は結束力が強かったことで知られているということです。
船手頭(ふなでがしら)として江戸湊の防衛にあたった石川八左衛門政次(石川大隅守)。

(石川氏が鎧島に武家屋敷を構えて、この島は石川島と命名されたことは前々回書きました。)

江戸へくだってきた佃村・大和田村の漁師一行が、江戸で最初に仮住まいしたのが小石川の安藤対馬守重信の屋敷。

二人とも家康の信任が厚く、家康の命により彼らを預かることになったのです。

佃村・大和田村の漁師一行は、初め小石川の安藤対馬守の屋敷に仮住まいをしていました。
現在、小石川は大分内陸になっているのですが、中世から江戸時代の初期の小石川村は平川につながり、日比谷入江を通ってすぐに江戸湊に出ることができたのです。
安藤対馬守の屋敷跡は、現在ではお茶の水女子大のキャンパスあたり(文京区大塚)になっています。
現在の千川通りあたりを流れていた小石川沿いには、漁師がたくさん住んでいたといいます。
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安政5年(1858)の地図
江戸湊に石川島や佃島が見える。

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江戸の町の造成が進んだ1610年代から1620年代にかけて、江戸湊の埋め立ても進み、日本橋本町から東に日本橋小網町、霊岸島などが造成されていきました。
「佃島年表」によれば、1613年、この安藤対馬守の屋敷小網町に移ったようで、漁師たちもそこで仮住まいしたと推察されます。
その後日本橋小網町の船手頭(ふなでがしら)石川大隅守の邸内に移っています。

当時の小網町は江戸湊で漁をするには一等地。

大坂から卓越した漁業技術を持ってきた彼らがそこに招かれたというのは、高待遇であったことが伺えます。

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慶長18年(1613)、幕府御用掛(がかり)として江戸湾近辺での自由漁業を願い出て許可されました(「御免書」)。
漁民たちはその見返りとして、幕府への御菜魚の納入、将軍御成先での漁の実演、鷹狩り用に使用する鷹に与える小鳥や小動物に与える小エビ、小ウナギの納入、出水の際の船人足の派遣などが義務付けられました。
彼らは特権的な漁業権を手に入れました。
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寛永年間(1624ー1644)、武家地への町人の居住が禁止されたため、武家地に住まいしていた漁民たちは引越しをすることになりました。
その地が、石川氏が拝領した隅田川河口の島(石川島)の南続きの干潟(約8500坪)を賜りました。そこで漁民自らが造成工事(築立て)をしたということです。
漁の合間に休むことなく造成し、10年以上の歳月をかけて、1644年に島が完成しました。
すごいことですね。
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こうしてようやく、故郷の佃村の名前にちなんで、「佃島」という島が江戸に誕生しました。

翌年、佃の渡し舟が始まり、翌々年には佃島に住吉神社が遷座しました。
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その5年後の慶安2年(1649)、佃島には戸数80軒、160余名の漁民が居住するに至ったということです。
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名所江戸百景  第四景『永代橋佃しま』
左側に大きく永代橋橋脚、右側は漁船の櫓。
橋脚 のかげには白魚漁をする漁船と四手網。
水面に月影とかがり火の影が映り、
遠くに佃島が見える

 

Jun 29, 2017

佃島の歴史1〜家康と佃村〜

東京に江戸の面影を残すところを探すのはなかなか難しいですね。

 

 
現在東京に残っているのは、江戸城があった皇居、そして江戸の町の面影を残している佃島ではないでしょうか。
 

佃島は、非常に貴重な島だと思います。
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なぜ佃村の漁師たちは江戸までやってきたのか、とても興味深い話です。

 

 
 
 
慶長年間(1596〜1615)、徳川家康の江戸入府にあたり、摂津国西成郡佃村・大和田村(現 大阪府大阪市西淀川区)の名主森孫右衛門一族7名と漁民33名が江戸にくだってきました。
 

どうも家康との特別な関係があったようです。

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天正年間(1573〜1592)、家康が京へ上る際、摂津国多田神社に参拝した時に、この漁民たちが神崎川へ舟を出したのがきっかけで、
 
家康のお膳に出すための御菜魚の納入や河渡し、海上での隠密活動を務めるようになりました。
 

1613年、彼らは「浅草川と稲毛側を除く全国のどこでも漁をしてもよい」という漁業特権を与えれたのですが、それは1614年から始まる大坂の陣で佃村の漁師が海上隠密活動をしやすいようにするためだったとも言われているということです。

 

 
淀川、神崎川に囲まれた佃村周辺の郷民は、ほとんどが豊臣方であったため、
その中にあって、佃・大和田村の漁民は家康にとって特別の存在であったのです。

                              (つづく)

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 江戸名所四十八景三十 佃しま
歌川広重(二代)画 文久元年(1861)
佃島住吉神社から対岸を望む

 

Jun 28, 2017

石川島は今いずこに

佃公園に常夜燈(灯台)のモニュメントがあります。
(ここは公衆トイレになっていますが。)
 
江戸時代には、この灯台のすぐ脇に人足寄場があったといいます。
『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長谷川平蔵の進言によって、寛政2年、老中松平定信がここに人足寄場をつくったのです。
人足寄場は、軽犯罪を犯した受刑者、無宿舎を社会復帰させるための訓練施設のことをいいます。
 

この地は「石川島」と呼ばれていました。

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『江戸名所図会』では「鎧島」とか「森島」と呼ばれていたようですが、
「石川島」という呼び名は、寛永3年(1626)に石川八左衛門政次という武士がこの地に屋敷地を与えられたことに由来します。
 
石川氏は、家康と同郷の三河出身の三河武士一族で、家康の家臣の一人でした。
 
石川氏は「船手頭(御船奉行)」として幕府用船の保管・運行の任務にあたり、江戸湊の防衛にあたっていました。
 

その後この地は、石川氏にちなんで「石川島」と呼ばれるようになりましたが、

 

寛政2年、石川氏の敷地の南側に人足寄場が設けられ、

石川氏は永田町に移転することになったのです。

 

そして、明治5年(1872)の町名改正で、佃島と合併したために「石川島」という住居表示はなくなってしまったのです。

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現在の佃1丁目、2丁目の東京のウォーターフロント再開発の先駆けとなった「大川端リバーシティー」は、石川氏の屋敷跡に建っています。
 

人足寄場だったところは、現在公園となって、人々の憩いの場となっています。
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隅田川の川沿いに桜並木があって、散策するのも楽しい場所です。

毎年お花見の一つとしても盛り上がりを見せています。

 

今では昔の面影は残っていませんが、約9ヘクタールにも及ぶという広大な敷地を利用して上手に建物を建てました。
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今では「東京のマンハッタン」とまで呼ばれています。

再開発地区の中でも人々が安らげる空間にしたのは、東京都心部では画期的なこととして今でも高く評価されているといいます。

 

敷地内にある石川島資料館で、往時の様子を知ることができます。

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Jun 27, 2017

水路交通から陸路交通へ

月島って、どこにあるんだろうか。

上京してきた二十歳前後の私はそれまで月島という地名を聞いたことがありませんでした。
 
八丈島とか、どこか遠くにあるのかな。
 
船で通勤してくるのだろうか・・。大変だなあと思ったものです。
 

月島は明治25年(1892)に月島の渡しが設けられ、昭和15年(1940)に勝鬨橋の開通に伴って、渡し舟は廃止されました。

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昭和63年(1988)に営団地下鉄有楽町線月島駅が開通した時には、本当に画期的でした。
 
この開通の日が来るのを首を長くして待っていたものです。
 
それまで都バスまたは日比谷線築地駅まで歩いて行って、地下鉄に乗って職場まで行っていたものですから、
 
それは本当に嬉しい出来事だったのです。
 
その後平成12年(2000)に都営地下鉄大江戸線月島駅の開通によって、飛躍的に月島駅を利用する乗客が増えました。
人の流れが大きく変わったことを実感しました。
 
知らない人が路地を行き来するようにもなり、ちょっと怖いなあと思うこともありました。
 
でも、路地に入ると、住まいは静かなのです。このサロンを訪れる方々も皆さんそうおっしゃいます。
 

江戸時代から続いた佃の渡しも、昭和39年(1964)に佃大橋の開通に伴って廃止されました。

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江戸時代の交通の屋台骨であった水路交通から、橋を利用する陸路の交通へと、
 

ここ佃島、月島はまさに実生活に直結した形で交通手段が変貌してきた土地なのです。

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Jun 26, 2017

わが町月島〜築島125周年〜

10年前にNHKで朝の連続テレビ小説『瞳』が放映されました。
 
「月島が出てるねえ」
「懐かしいねえ」と、
 
あの頃は母や親戚から電話がかかってきたものです。
 
しかも、瞳ちゃんの住んでいたところは、我がサロンの辺りという設定でした。
よく観光客に声をかけられたものです。
 
「あの〜、この辺に瞳ちゃんのうちはありませんか」と。
 
あれは架空の番地だったのです。
 
佃島の住吉さんのお祭りはここ月島でも相当の熱の入れようです。
 
3年に一度の熱く熱く燃える夏です。
 
ドラマの中でも八角神輿を担ぐ威勢の良さが描かれていました。
 

命がけの神輿担ぎ。

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家康の時代に、摂津国佃村から森孫右衛門一族と漁民33名がやってきたのが佃島造成の始まりです。
 
海の神様として漁師の信仰を集めた住吉の社から分祀されたのが住吉神社です。
 

歌川広重の江戸名所百景「佃しま住吉乃祭」にも住吉神社の祭礼の幟が描かれているほど、歴史のあるお祭りです。

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月島は明治25年に築島され、今年で125年目を迎えます。
 
今この月島も大きな変貌を遂げようとしています。
 
それは中央区の再開発の大波です。
 
関東大震災後に建てられた長屋と路地は、
 
東京大空襲にも遭わずに、奇跡的に残っている町並みです。
 
京都の町並みのように、碁盤の目状になっているところは、日本広しといえども、京都と月島しか存在しないといいます。
 

消えゆくこの町並みを、今「路地文化継承」という視点から改めて考え直してみたいと思います。

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