福徳招来・商売繁盛の「えべっさん」
恵比寿さんの笑顔は「えびす顔」〜福徳招来・商売繁盛の「えべっさん」〜
大阪の人にはおなじみという「えべっさん」。「十日えびす」。
今日から関西以西では有名なお祭り「えべっさん」が始まりましたね。
毎年1月9日から11日にかけて行われます。
9日が「宵戎(よいえびす)」、
10日が「十日戎(とおかえびす)」、
11日が「残り福(のこりふく)」と呼ばれます。
本命の十日戎(とおかえびす)の日は一番混雑するそうです。
縁起物を買うのなら「残り福」の夜がお勧めだそうです。それは値切れるから。
さすが大阪人ですね。
関東ではなじみが余りありませんが、10月20日、「えびす講」というのがあります。
神様が出雲に行っていない間、
留守番をしている恵比寿様をお慰めしようというのが「えびす講」です。
「恵比寿様」って、「蛭子(ひるこ)」の神話と結びついたのですよ。
「古事記」で、イザナギ、イザナミの子として最初の生まれた蛭子(ひるこ)は
手も足もないふにゃふにゃで、3年たっても足が立たないために、
二神は悲しみの中、葦の船にのせて流してしまわれたということです。
この流された蛭子が西宮の地に漂着したという信仰が鎌倉時代に生まれ、
海からやってくる姿が恵比寿(えびす)の姿と一致したため、
この二神は同じ神様とみなされるようになったのですね。
兵庫県西宮市の「西宮戎(にしのみやえびす)」が本家で、
商売の町大阪の「今宮戎(いまみやえびす)」も有名です。
「夷」や「戎」とも書かれることから、異民族の漂流者との説もあるそうですが、
中世には勇猛な武士の呼び名となって、
鎌倉武士を京で「東(あずま)夷」、「荒(あら)夷」といったのです。
右手に釣り竿を、左脇に鯛を抱えて、
狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬき)に風折烏帽子(かざおりえぼし)をつけた出で立ちです。
満面の笑みは「えびす顔」と言われます。
商業、漁業、海上の守り神、さらには田の神として熱い信仰を得ています。
満面の笑みこそ、幸運をキャッチできるのですね。
だから、みんな大好きな「えべっさん」なのですね。
ビッグバン〜長唄「七福神」に見る国生みの話〜「古事記」
宇宙神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
天地開闢の際に最初に現れた神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)について、
前回お話しました。
実は、現代の物理学の一つの理論で言われていることと、とてもよく似ていると思われます。
時空の揺らぎの中から宇宙の卵が生まれ、
それがビッグバンを起こして現在の宇宙になったとする考え方です。
時空の揺らぎの中から宇宙が「成った」とされるのは、
「古事記」の上巻でも、神が現れるときには「成った」という表現がされているのと、
共通しているのがとても興味深いですね。
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高天原に最初に成りいでたこの神様は、登場するのはたったの一度きりですが、
実はその後の天地創造で成る神々様の背後にいて、表舞台には登場しませんが、
裏で宇宙を支えている存在なのでしょう。
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この「日本の原風景」も今年最後となりました。
一年間お読みいただきまして、ありがとうございました。
日本の古典芸能の世界を描き、
やはり日本人としてたどり着くのはバックボーンである日本の神々、八百万の神々のことだと、
私は思います。
今年の「日本の原風景」は、日本の国造りをしたイザナギ、イザナミのお話をして、
五柱の登場の後、次の七柱の神々が成りますが、
その中の最後の二柱がイザナギ、イザナミです。
日本の「国生み」と「神生み」をした神々です。
実は、長唄「七福神」の冒頭にもイザナギ、イザナミの二柱が登場します。
イザナギ、イザナミは夫婦として、天の逆鉾を使って、
混沌とした海へポタポタと筆から雫を滴り下ろすように、
一つの島をお造りになりました。
そして、二柱は島の上に天下ります。
二人は初めに蛭子(ひるこ)をお産みになりました。
天照大神、月夜見尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と、
神々をお産みになりました。
蛭子(ひるこ)は、骨も皮もなくふにゃふにゃだったので、海に流されてしまいました。
日本舞踊の歌詞の中には、神々を崇めるフレーズがたくさん出てきます。
そういうものを自然に受け入れて、
歌と言葉と振りを融合させてきた先人たちの日常に触れる思いがしています。
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この蛭子(ひるこ)は、中世の信仰の中で恵比寿信仰と結びつき、
七福神の一神の恵比寿様になったのです。
西宮神社の恵比寿三郎様として登場します。
そこでやっと「七福神」という題名と結びついていきます。
長唄「七福神」については、いずれまたお話しますね。
伊弉諾伊弉冉(いざなぎ、いざなみ)夫婦寄り合ひ
漫々たる和田津海に 天の逆鉾降りさせ給ひ
引き上げ給ふ そのしたたりに
凝りかたまって 一つの島を 月読み日読み
蛭子(ひるこ)素戔嗚尊(すさのお)儲け給う
蛭子と申すは恵比寿のことよ 骨なし皮なしやくたいなし
三年足立ちたまわねば 手繰りくりくる来る船に
乗せ奉れば蒼海原に 流したまえば
海を譲りに受取りたもう 西の宮の恵比寿三郎
いともかしこき釣針おろし
万の魚を釣りつった姿は
いよ さてしおらしや
(以上 前半部分)
イザナギとイザナミの二柱は、天浮橋から海に矛を下ろして、
「こおろ、こおろ」と海水を搔き鳴らして矛を引き上げます。
その先から海水が滴り落ちて、塩が固まって島ができました。
これが磤馭慮島(おのごろじま)です。
これは自然にかたまってできた島という意味で、どの島かは分かっていません。
その後二神は男女の交わりをなして、更に島々を生んでいきます。
蛭子のように失敗もありました。
再度挑戦をして、イザナギのほうから「なんて素敵な乙女よ」と
夫から妻であるイザナミに声をかけて交わることによって、
本州や四国、九州などの大地を生んでいきます。
かくして、今の日本列島(大八島・おおやしま)が出来上がりました。
その後も、風の神、海の神、山の神、土の神など、
更にこの世の森羅万象を表す神々をどんどん生んでいきます。
八百万の神々が生まれていきます。
当時の人は、ビッグバンなどを知らなかったでしょうし、
人類の誕生の進化なども科学的に知るよしもなかったのでしょうが、
宇宙の仕組みを直観的に理解していたのでしょうか。
人間の持つ宇宙の真理を知る能力、
この計り知れない力を古代の人々は持ち合わせていたことに敬服します。
イザナギが妻イザナギの死後、またまた衝撃的なことが起こっていきますね。
年が明けてから、また再開したいと思いますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。
「断・捨・離」から「捨徳」を考える
先日書きました「断・捨・離」について、ある方が「捨徳」ということをおっしゃっていました。これはどんな意味なのでしょうか。これを考えてみましょう。
「断・捨・離」を心の側面から見ると、「捨」と「離」の心が、仏教でいう「四無量(しむりょうしん)」の中の「捨無量心」にあたるのですね。
「四無量心(しむりょうしん)」は、仏教の言葉で仏が一切の衆生に対して持っている無限の愛の心のことです。人間が目指すべき心のあり方ですね。
慈悲の心をあらわす「慈無量心」、相手の悲しみを取り除いてあげたいという「悲無量心」、喜びを与える心をあらわす「喜無量心」、相手に対する穏やかで動揺しない心をあらわす「捨無量心」。
この「慈・悲・喜・捨」の四文字の意味を見ていきます。
「慈」と「悲」は、合わせて「慈悲」と呼ばれ、苦しんでいる人を見たら、その人の苦しみを除いてあげたいと思う心、「慈」は「抜苦」(ばっく)ということです。
そして、「悲」は「与楽」(よらく)、すなわち悲しんでいる人に楽しみを与えてあげたいと思う心のことです。
「喜」は自分の喜びではなく、他の人が喜んでいるのを見て、自分の喜びとするということであり、
「捨」は執着を捨てるということです。
では、「捨徳」とはどのような意味なのでしょうか。
相手を愛すればこそ、それに執着してはいけない、思いを解き放つということです。
例えば、子どもに対しては、溺愛しないで、時には突き放す、それはその子を真の人に育てようという智恵に基づく愛です。
また、夫が浮気をしたときに、夫をどのように見るのか、相手の女性をどのように見るのか、憎しみと怒りと拒絶を持って自分の心の中に迎え入れるのか、その思いを解き放ち、愛する者に対するのと同じように憎む者に対しても同じような心で接するのか。
この部分だけを見ればとても難しいことですね。なぜそこに至ったのかを考える必要もあろうかと思います。
愛憎の別を捨てて「空平等」の悟りを得ること。これが「捨徳」のようですね。
自他一体の心を体得していくことは、もちろんなかなか難しいことです。
この神の無限なる愛の心、自他一体の心を人々が持つように心掛けていくと、自分と他者、自国と他民族、人類と動植物などの境界を越えて、「みな尊い命をもつもの」という考え方と「みな生かされているのだ」という思いになれるのだと思います。
イエス・キリストも述べていることは同じことなのですね。
「目には目を」「隣り人を愛し、敵を憎め」という言葉、行為をいさめています。
(『マタイによる福音書』第5章)
だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
天の父は、悪い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨も降らせてくれる。
天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な人になりなさい。
門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。
言うはやすしですが、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と、生きている間、日々日常の中での学びを体験し体得していきたいと、そう願っています。
「古事記」されど「古事記」
現存する日本最古の歴史書とされる「古事記」。
今多くの書籍も出ていてブームになっていますね。
奈良時代の和同5年(712年)に成立、伝承では稗田阿礼(ひえだのあれい)が暗習(しょうしゅう)したものを太安万侶(おおのやすまろ)が文章化したとされています。
天武天皇の勅令で稗田阿礼が暗習させていた帝紀や旧辞を、天武天皇の死後、元明天皇の命を受けて太安万侶が選録し、712年に献進しました。
日本最古の歴史書とされ、天皇統治の由来と王権による国家発展の歴史を説いています。
上巻では神代、中巻では神武天皇から応神天皇まで、下巻では仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含んでいます。
上巻(かみつのまき)では、天地開闢以来の日本列島の形成と国土の整備が語られています。神々の天孫降臨を経て、神武天皇の誕生までを描いています。
たくさんの神様が登場してくるので、その名前を見ただけでも混乱してしまい、それが「古事記」を敬遠したくなる原因でもありますよね。
神話と言われる「古事記」されど「古事記」。日本最古の歴史書。
やっぱり知っておいたほうがよさそうですね〜。
この際、一緒に学んでいきましょう。
伊勢神宮でお祀りされている天照大神が登場するのは、実はずっと後のことです。
天地開闢の際に最初に現れたのは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。
この天之御中主神が、「古事記」に最初に登場する神様で、宇宙を司る神とされています。古事記での登場は最初の一度きり。
近世以降の民間信仰では、北極星を信仰する妙見菩薩と同一視されて、「妙見さん」として信仰されたそうです。
天地(あめつち)が初めて地球に現れたとき、高天原の降り立ったのは、
この天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、そしてあと二柱、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすび)でした。
大地はまだ若く、水に浮く脂のようで、くらげにように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした。
その後、葦の芽のように伸びてきたものの中から、また二柱の神様が現れます。宇摩志阿斯詞備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)です。
これらの五神を神五柱(いつはしら)と呼びます。
さらに、天地が現れて早い時期に成った特別な神様たちということで、別天神(ことあまつかみ)といわれます。
見ているだけでも、息が切れそうですね。
イザナギ、イザナミが登場するのは次の代になります。
(続く)
日本のこころ〜世界に誇れる日本を目指して〜
今年、伊勢神宮は20年に一度の式年遷宮が、
そして、出雲大社は「平成の大遷宮」と言われる60年ぶりの本殿の修造が完成した、
今年はおめでたい特別な年です。
日本が大きく変わっていく、そんな予感がします。
実は昨日は日帰りで伊勢神宮の参拝に行ってまいりました。
秋の暖かな一日でした。
清々しい気が参拝者を静かに迎え入れてくれていました。
ふと見上げると、「日本のこころ 伊勢神宮」という幕が目に入りました。
日本のこころ・・・
「日本のこころ」なのです。
奥深い言葉です。
大切にしたい思いです。
私の「日本のこころ」を動画にしました。
題して「喜恵子の “和のたしな美塾”」です。
どうか、皆様の魂に届きますように。
佃の住吉さん
☆佃島の住吉さん☆
この佃島の住吉神社は、1646年、住吉大社の分神霊として建立。
江戸幕府に許可された由緒ある江戸っ子のお祭り、今も3年に1度行われます。
隅田川を渡御する船渡御祭。
江戸三大囃子の一つ、佃ばやし。
高さ20メートルの6基の大幟(のぼり)と八角神輿。
一見の価値ありですよ。
都の名所、佃島
あれ、鳥が鳴く鳥の名も
都(みやこ)に名所があるわいな
〜俗曲『夕ぐれ』より〜
都の名所の一つ、佃島。
徳川家康に佃煮を献上するため、
摂津国佃村の漁師たちが移り住んだと言われている、ここ佃島。
3年に1度の住吉神社の佃祭りは、江戸時代からのもの。
安藤広重の「名所江戸百景」に、その幟(のぼり)と神輿が描かれています。
その幟が、今でもお祭りで使われているのです。それは佃っ子の誇り。
楽しい土曜日をお過ごしくださいね。
勝道上人と天海大僧正〜日光4〜
「谷を見下ろせば院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」と、
連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が当時の日光山の繁栄ぶりを紀行文「東の津登」で著しています。
鎌倉時代、室町時代、京の比叡山に次ぐ寺格を朝廷から得るほど、日光山は繁栄しました。
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しかし、その後、豊臣秀吉が天下統一のため小田原を攻める際、日光山の僧兵が北条氏に味方したために寺社領のほとんどを秀吉に没収され、衰退していったのです。
これほど変わり果てた日光山がどうして今日のようになれたのか、とても興味深い出来事です。
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中禅寺湖の中にある小さな島には、勝道上人と天海大僧正の遺骨が納められています。
日光にとってこの二人は大変重要な人物なのですね。
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徳川家康は全天台宗の実権を握りつつあった天海大僧正に出会いました。
それは日光山を蘇生させる運命的な出会いでもありました。
日光衰退からわずか30年で日光は蘇生していきます。
天海は日光の重要性を家康に語っていきます。
家康は、「自分の一周忌後、日光山に小堂を建て関八州の鎮守として祀るように」と、天海に遺言しました。
そして、「東照大権現」として、家康は東照宮から江戸を見守ることになりました。
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天海大僧正は呪術的にも優れた洞察力と天才的な運命学の知識を持っていて、家康も高く評価していたといいます。
日光は江戸の真北、「北」は生命をコントロールする気が生ずる場所。
古代中国の天道思想も取り入れて、家康が大権現として、北方から北極星を背に江戸城を守るというわけです。今の皇居は家康から守護されているのですね。
天海は、江戸城構築にも、八門遁甲(はちもんとんこう)の秘法により子孫繁栄の方位を使ったり、鬼門にあたるところには神社を建て、法を修したといいます。
江戸城から見ると、日光も鬼門にあたるところです。
東照宮を建てたというのも納得できます。
日光市内でも、勝道上人と天海大僧正がそれぞれ表と裏の鬼門を守護していると言われています。
世界中から大勢の観光客を日光に迎えて、この二人の偉人は今どういう思いで見ているのでしょうか。
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奇跡の橋「神橋」〜日光3〜
奈良平安時代、朝廷が支配していた頃、白河の関以北は外国だったのですね。
日光のある下野は、外国である蝦夷地との境界線にありました。
ここは東北地方の蝦夷鎮めの場所として、下野は重要な地点でした。
朝廷の命令によって蝦夷を平定するために東北地方に赴くという役職が「征夷大将軍」でした。
坂上田村麻呂も日光山に戦勝祈願に赴き、その後、東北全土を平定したと言われています。
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蝦夷地を遥かに見渡せる男体山。
修験道の山でもありますが、東北地方に向かって、たくさんの銅鏡や銅印が山に埋められていたという、特別な祈りがされていた場所でもあります。
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日光山開祖の勝道上人(しょうどうしょうにん)。
蝦夷地を遥かに見渡せる男体山の登頂を、苦行練行の末、17年の歳月をかけて3回目の登頂で果たしたのも、男体山で仏法を修して国家鎮護を祈願をするという目的もあったのですね。
現在、世界遺産になっている日光東照宮をはじめとする二社一寺がある場所は、当時ジャングルのような密林でした。
上人一行が男体山の登頂を果たすため、まず大谷川(だいやがわ)という急流を渡った時、深紗大王(じんじゃだいおう・毘沙門天)が2匹の蛇を放ち、蛇の背中から止ま山菅が生えてきて、橋になってくれたおかげで、彼らは歩を進めることができたという逸話が残っています。
それが「神橋(しんきょう)」です。
別名「山菅の橋」「山菅蛇橋」と言われています。
この橋も世界遺産に登録されています。
芭蕉「おくのほそ道」〜日光2〜
日光は、かつて米軍が避暑地として接収したほど、自然に恵まれた美しい景色を有するところです。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で日光に立ち寄ったことを書いています。
芭蕉が最も敬愛した西行法師の遺跡をたどって奥州路の歌枕を訪ねることを目的として、門弟河合曾良とともに約半年間の旅を出ました。
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江戸の芭蕉庵を出発して、宇都宮、鹿沼から日光へ。
そして、奥州の入り口、白河の関を目指します。
「あらたうと 青葉若葉の日の光」
日光東照宮を参拝した芭蕉がその威光の素晴らしさを褒めたたえています。
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三代将軍家光公が寛永の大造替をしたことによって、現在の豪華絢爛たる東照宮を造営しました。
みちのくへの旅の途中に日光へ寄って、日光の名所旧跡を訪ねる文人が多かったようです。
日光は関東の北端。そして、みちのくの旅の入り口、白河古関趾で多くの歌が詠まれ、みちのくへと向かうのです。
みちのくへの旅は、多くの文人にとって、まだまだ未知の世界のようでした。
竜頭ノ滝上流から中禅寺湖へ