佃島の歴史2〜「佃島」の誕生〜

三河武士団は結束力が強かったことで知られているということです。
船手頭(ふなでがしら)として江戸湊の防衛にあたった石川八左衛門政次(石川大隅守)。

(石川氏が鎧島に武家屋敷を構えて、この島は石川島と命名されたことは前々回書きました。)

江戸へくだってきた佃村・大和田村の漁師一行が、江戸で最初に仮住まいしたのが小石川の安藤対馬守重信の屋敷。

二人とも家康の信任が厚く、家康の命により彼らを預かることになったのです。

佃村・大和田村の漁師一行は、初め小石川の安藤対馬守の屋敷に仮住まいをしていました。
現在、小石川は大分内陸になっているのですが、中世から江戸時代の初期の小石川村は平川につながり、日比谷入江を通ってすぐに江戸湊に出ることができたのです。
安藤対馬守の屋敷跡は、現在ではお茶の水女子大のキャンパスあたり(文京区大塚)になっています。
現在の千川通りあたりを流れていた小石川沿いには、漁師がたくさん住んでいたといいます。
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安政5年(1858)の地図
江戸湊に石川島や佃島が見える。

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江戸の町の造成が進んだ1610年代から1620年代にかけて、江戸湊の埋め立ても進み、日本橋本町から東に日本橋小網町、霊岸島などが造成されていきました。
「佃島年表」によれば、1613年、この安藤対馬守の屋敷小網町に移ったようで、漁師たちもそこで仮住まいしたと推察されます。
その後日本橋小網町の船手頭(ふなでがしら)石川大隅守の邸内に移っています。

当時の小網町は江戸湊で漁をするには一等地。

大坂から卓越した漁業技術を持ってきた彼らがそこに招かれたというのは、高待遇であったことが伺えます。

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慶長18年(1613)、幕府御用掛(がかり)として江戸湾近辺での自由漁業を願い出て許可されました(「御免書」)。
漁民たちはその見返りとして、幕府への御菜魚の納入、将軍御成先での漁の実演、鷹狩り用に使用する鷹に与える小鳥や小動物に与える小エビ、小ウナギの納入、出水の際の船人足の派遣などが義務付けられました。
彼らは特権的な漁業権を手に入れました。
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寛永年間(1624ー1644)、武家地への町人の居住が禁止されたため、武家地に住まいしていた漁民たちは引越しをすることになりました。
その地が、石川氏が拝領した隅田川河口の島(石川島)の南続きの干潟(約8500坪)を賜りました。そこで漁民自らが造成工事(築立て)をしたということです。
漁の合間に休むことなく造成し、10年以上の歳月をかけて、1644年に島が完成しました。
すごいことですね。
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こうしてようやく、故郷の佃村の名前にちなんで、「佃島」という島が江戸に誕生しました。

翌年、佃の渡し舟が始まり、翌々年には佃島に住吉神社が遷座しました。
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その5年後の慶安2年(1649)、佃島には戸数80軒、160余名の漁民が居住するに至ったということです。
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名所江戸百景  第四景『永代橋佃しま』
左側に大きく永代橋橋脚、右側は漁船の櫓。
橋脚 のかげには白魚漁をする漁船と四手網。
水面に月影とかがり火の影が映り、
遠くに佃島が見える