月島の歴史1〜明治なのに江戸が残る〜

もんじゃ焼きで有名な月島。
いつの間にか、月島のメインストリートの「西仲商店街」は「もんじゃストリート」と呼ばれるようになって、久しいです。

.

.

月島(一号地)は、明治25年(1892)に埋め立てられました。

初めは「築島」と呼ばれたのです。
それが三日月の形をしている島ということで、「月島」と銘々されました。

続く2年後の明治27年(1894)、勝どき(二号地)がつくられ、

更にその2年の明治29年(1896)、新佃島の埋め立てが完成しました。

.

『東京市十五区番地界入地図』東京市京橋区全図
明治40年(1907)発行

 

.

 

明治になって、旧佃島の南側に月島、勝どきが、東側に新佃島が宅地化されてきたのです。

近代日本が、1868年の明治維新を起点として、
欧米列強に負けじと富国強兵を唱え、近代日本を目指す国家戦略の中で、
この月島地域もその波の中に飲み込まれていきました。

 

.

.

それでも、とても不思議なことに、
この月島という町の街割りは、江戸の方式を採用していることです。

六間(10.8メートル)道路が碁盤の目のように通っていて、
「一町街区」を基本とした街割りになっているのです。

関東大震災の後に建設された長屋は、
東京大空襲にも逢うことなく、奇跡的に残っています。
だいぶ老朽化した長屋も多く見受けられますが、
懐かしい人情を感じさせる「路地文化」が今も息づいているところなのです。

 

.