舞台を演ずる人々〜No.4

ー舞台を演ずる人々ー

今日は能舞台を演ずる人々について見てみたいと思います。

世阿弥は、能修行については厳しいことを述べています。
「7歳を以って初めとす」
「能は若年より老後まで習い徹るべし」
「命には終わりあり。能には果てあるべからず」

老後に最高の芸を目標とするカリキュラムを、世阿弥はつくったのです。

能の役者さんは、六十代、七十代が円熟期とされています。長老の演技は、どんな若さの花も及ばないみずみずさにあふれているとされています。これは、心の演技を極めていった、何百年もの努力の結果なのですね。
現代のような寿命の長くなった時代に生きる私たちにとっては、大きな励みとなりますね。

しかも、能においては、それぞれの役が専門職として、分業制度をとっています。ワキ方はワキ方として、小鼓方は小鼓の修行に一生を傾けます。

シテ方は、能の花として、男の役、女の役、神、鬼、精、亡霊などあらゆる役を能面を用いて演じます。

ワキ方は、素顔のままで現実の男性だけを演じます。
狂言方は、独立した狂言の作品を演ずるほか、能の中の一役を演じます。
囃子方は、笛方、小鼓方、太鼓方に分かれます。決して伴奏者ではなく、それぞれがシテと対等に渡りあう、重要な役であり、能の芸術的生命であるリズムをリードします。

例えば、シテ方の修行法。ただ舞台に数分出るだけの初舞台、仕舞や謡の技術訓練をしながら、子役を演じ、二十代でツレというシテに従属する役で能面の使用法に慣れます。技術の習得は二十代で卒業し独立宣言です。それ以降は心の修練に入ります。還暦を過ぎてから、初めて老女物という至難の能に挑戦します。心の世界の最高の能です。

能の継承は家元制度ですが、歌舞伎と違って、芸術院会員や人間国宝に選ばれた人たちの過半数は家柄や親代々ということではないのです。
世阿弥は、「知るをもて人とす」、能の心を知るものこそが後継者であるとも言っています。
自由に個性が発揮されつつ、厳しい修練を要求される能修行、これこそが現代まで生き続けてきた大きな理由なのですね。(つづく)