情念の純化〜「夢幻能」〜No.3

ー情念の純化「夢幻能」ー

観阿弥の子世阿弥は、「夢幻能」という演劇手法を生み出しました。

死後の世界の時点から、生きていた時間のすべて、情念そのものを凝縮して描くタイプの能です。
リアリズム演劇に行き詰った西欧の演劇が、能を前衛芸術として高く評価したのは、そこに大きな理由があるようです。

能舞台では、時間は自由に停止し、逆行し、亡霊や神、鬼、天狗などの異次元の存在まで自由に舞台に登場します。

「夢幻能」では何を描くのかと言うと、美しく、純粋に情念そのものを描くことです。

能の世界では、それを何百年もかけて追求してきたのですね。

世阿弥が独り寝の妻の悲しみと死を描いた能「砧 (きぬた) 」。

これは、ある特定の時代に、特定の状況を生きた個人のドラマではなく、遠くにあって帰らぬ夫を恋い慕う、人間がある限り続くであろう女性の思いそのものがテーマなのです。
どんな近松門左衛門の作品よりも外国人の方が感動するのは、そこなのだそうです。

これも世阿弥の作とされる「井筒 (いづつ) 」。

「伊勢物語」の在原業平の恋物語です。演劇では、在原業平と井筒の女 (業平の妻) と新しい恋人の三人が舞台に登場しないと成り立たないのですが、能の舞台はまったく異なります。
業平らの死後、業平の在原寺も朽ち果て、思い出の井戸は薄 (すすき) に埋れ、月に照らし出されているという設定です。一人の旅僧がたまたま通りかかったところへ井筒の女の亡霊が現れ、昔の恋物語を語り、消えていくという手法です。
井筒の女は、夫の形見の衣装の男装で現れ、愛の追慕を舞い、月に濡れた我が身を井戸に映して、ひたすら業平の面影を追慕するのです。
現在進行形の形をとり、再現写実をスタイルとする西欧の演劇、そこでは不可能な恋の永遠性を描き切るのです。
ある特定の時代背景や個人的なドラマを越えて、死後の世界から愛の思いを結晶させる「夢幻能」。
是非、一度ご覧になってみてください。(つづく)