「能」No.2 型〜最小限の動きの先にあるものは〜

型ー最小限の動きの先にあるものはー

能が時代や国境を越えて愛されてきた理由の一つに、

演劇としての能の表現が、再現的な写実の描写ではなく、

人間の情念を舞台に純粋に結晶しようと、

詩劇の形式をとったことが挙げられることを前回申し上げました。

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ちょうど、竜安寺の石庭を鑑賞するのと同じような心境だと考えられます。

草や木もない石だけの庭を無心に眺める、そこにある石と心で対話をする、そんな心境です。

禅の「無」の境地が能にも色濃く表れているのです。

 
能の演技は、すべて型という様式に律せられ、人間の最小限の動きを煮詰めた極限にあると言われます。

能では、手足の動きが心の動きを表現するまでに昇華させてしまいました。


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写実的な、例えば涙を流す、はるかなる空を仰ぐとか、このような表現すら様式化され、抽象的、象徴的な型と融け合っています。

これらはすべて何百年もかけて磨き上げたものです。

 
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例えば、「隅田川」の狂女が、さらわれた我が子を尋ねる果てしない旅の心を、わずか数歩を出す演技で表現します。

この数歩にははるか千里のはるけさの思いが凝縮されています。

時間と空間を自由自在に使いこなしています。

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人間の感情を最も豊かに表現するのは顔ですが、動かない能面で覆ってしまいました。

指先の演技も極限まで制約して、肩と肘と手首だけが、常に円と直線の動きをします。

能では、足運びの流れるリズム感が大切とされています。白足袋の動きの美しさを最高に活かすのが鏡板です。

この音響効果抜群の文字通り檜舞台の上で響かせるのが足拍子です。

この制約された動きの中で、手足こそが心の表現をするのです。

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また、能の舞台は老い松の絵があるだけですが、演目によっては、必要最小限度の道具(作り物)が使われ、

それも象徴的な意味を表します。

異次元空間とも自由に行き交います。

 

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例えば、「船弁慶」の船は幼稚園の工作のように見えますが、

ひとたびこの船が現れると、舞台はたちまち海上となり、

平家の亡霊が嵐を起こして源義経主従の船に襲いかかるのです。

 

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「安達原(黒塚)」では荒野に独り住む老女が回す糸車は、むなしくて長い彼女の人生であり、苦しみの世界に生き死にする人間の輪廻の姿を表します。

その背後にある寝室の作り物は、人間のおかした罪の集積を表現します。

 
写実的な描写ではなく、人間の情念を舞台に凝縮させた型を通して心を見ようとするとき、

能は無限の思いを語りかけてくるのです。

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室町時代の武将たちが心の安寧を禅宗に求めたように、

能舞台の世界に入り込むことによって、様々な苦悩を忘れ、現実から逃避することができたのだと思います。

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私たちが虚心になって舞台に対するとき、思いもよらない衝撃や感動が心の中から湧いてくるでしょう。

世界中で能が受け入れられるのは、型を超えたところに心と心が交流しあえるものがあるからなのですね。

 
少しはご理解いただけましたか。

今日もお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

素晴らしい一日をお過ごしくださいね。(つづく)

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竜安寺石庭