江戸時代の佃島の街割りと敷地割りはどうなっていたのでしょう。
宝永7年(1710)の「佃島沽券図控」(金子家蔵)というものがあって、
佃島の当時の形状、地割り、土地の所有状況などを見ることができます。
これは、佃島の名主が町奉行へ提出した沽券図の控えです。
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「佃島沽券図控」宝永7年(1710)(金子家蔵)
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この大きな島のほうは田の字型になっていて、街割りがシンメトリーになっています。
街区の奥行きは江戸町人地にならい、約20間(36メートル)とされました。
北側が上町(うわて)、南側が下町(しもちょう)とされ、
上町の西側には島のリーダーたちが住んでいました。
住吉神社は上町の北東側、奥まったところに建立され、
隅田川、江戸城に向かっています。
渡船場から東に伸びる道が三間幅(5.4メートル)の渡船場通りです。それに直交する南北方向の道(中通り)も三間幅でした。
これが江戸の町人地の標準的な道幅だったのです。
船入堀沿いの河岸通りと大川端沿いの道幅は、船からの陸揚げ作業のために7間(12.7メートル)と、広めに設定されました。
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「佃小橋」で結ばれた小さな島は東町(むかいちょう)と呼ばれ、
20間(36メートル)奥行きの街区が一列つくられました。
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「佃小橋」から見た船入堀
今も江戸時代の面影を残している。
左側は上町(うわて)、下町(しもちょう)。
右側は東町(むかいちょう)。
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江戸の町は火事が頻発していましたが、
隅田川対岸の本土のほうからも飛び火があって、佃島は何度も火災に遭っています。
大火災だった明暦の大火(1657年)では15軒だけが消失したのですが、
ほぼ島全体が全焼したのは四度もあり、住吉神社も四回消失しています。
度重なる火災や石垣の崩壊があっても、島の形状や街割りはほとんど変わっていないということです。
当時の歴史が残っているというのは、ありがいことですね。
佃島も少しずつ人口が増えていきましたから、建物の密集度が高まっていきました。
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1923年の関東大震災で消失しなかったおかげで、
ほぼ江戸時代のままの街並みが残ったのです。
それも、住民が一致団結して、本土からの類焼を消し止め、また飛び火によって類焼した建物を壊して類焼を食い止めたという努力があったということです。
江戸時代の火事の類焼を防ぐ心意気を見るようです。
現在は、東町の北部や新佃島、月島などの埋め立てもなされ、
全体的に地続きになっていますが、
元祖佃島は、江戸の情緒を残す場所として現在も息づいています。
街並み、路地文化としても貴重な文化遺産ですね。
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月島地区の再開発を見るにつけ、
この江戸時代の面影が残る旧佃島が現存しているというのは、とても価値あることだと思います。
伝統的文化遺産として、後世に残していきたいものです。
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