リンカーンに会えた日本人ヒコの生涯vol.1「運命の転換」

おはようございます。

日本が鎖国の時代。

その時代、寺子屋教育を受けた一人の若者が、

将来、大国アメリカと日本との文化の架け橋になろうとは。

だれが想像したでしょう。

「人民の人民による人民のための政治」を掲げ、
「奴隷解放の父」と呼ばれた

アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーン

リンカーンが凶弾で倒れ逝ってしまったとき、心から深く悲しんでいた
唯一の日本人がいました。

彼の名前はジョセフ・ヒコ

詳しくはこちらをご覧くださいね。

http://derivejapan.com/blog/hikozou/

友人の真下 吉弘さんが、このジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)について
詳しく調べてくださいましたので、記していきますね。

真下さん、ありがとうございました。

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アメリカ名ジョセフ・ヒコ、日本名濱田彦蔵、幼名彦太郎は、

1837年現在の兵庫県播磨町古宮の百姓の子として生まれました。

13歳の時、17人の仲間と共に52日間の漂流を続け、

中国からアメリカに向かう商船オークランド号に救助されたのです。

ここから彼の運命の大転換が始まりました。

当時13歳の彦太郎の母の再婚先の商家で数年間寺子屋に通って、

母を喜ばせることでもあり、そこで懸命に勉強したそうです。

この寺子屋で学んだ日本での基礎知識がアメリカ文化を吸収する力になっていたと、

想像されます。

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ヒコはその誠実さ、真面目さから、救助された船の船長や船員から特別に可愛がられ、

髷を切って、洋服を新調してもらい西洋人の姿になりました。

上陸したサンフランシスコでは13人の日本人を送り返しました。

彼はそのままその地に残ります。

そのころ、日本に開国を迫る新聞論調が頻繁に出されていました。

事実1年後、ペリー提督が大統領の親書を携えて開国を迫っていたのです。

ヒコ達は、滞在したサンフランシスコの社交界で日本の民族衣装を着て、

舞踏会にも頻繁に駆り出されて、大もてだったそうです。

中でも、ヒコはその聡明さと日本人らしさで引っ張りだこでした。

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ヒコの、誠実で真面目、聡明であり、気骨のあるところは、

日本人の持つ素晴らしい特質を十分発揮しているように思います。

日本の民族衣装である着物を着て、アメリカの社交界でも人気を博したのですね。

ニューファッションのように、アメリカ人には見えたのでしょうか。

この続きはまた次に書きますね。

本日も最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。

今日も幸多き一日になりますように。

写真は宮城の郷里の草花に登場してもらいました。☆

 

 

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