佃公園に常夜燈(灯台)のモニュメントがあります。
(ここは公衆トイレになっていますが。)
(ここは公衆トイレになっていますが。)
江戸時代には、この灯台のすぐ脇に人足寄場があったといいます。
『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長谷川平蔵の進言によって、寛政2年、老中松平定信がここに人足寄場をつくったのです。
人足寄場は、軽犯罪を犯した受刑者、無宿舎を社会復帰させるための訓練施設のことをいいます。
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『江戸名所図会』では「鎧島」とか「森島」と呼ばれていたようですが、
「石川島」という呼び名は、寛永3年(1626)に石川八左衛門政次という武士がこの地に屋敷地を与えられたことに由来します。
石川氏は、家康と同郷の三河出身の三河武士一族で、家康の家臣の一人でした。
石川氏は「船手頭(御船奉行)」として幕府用船の保管・運行の任務にあたり、江戸湊の防衛にあたっていました。
その後この地は、石川氏にちなんで「石川島」と呼ばれるようになりましたが、
寛政2年、石川氏の敷地の南側に人足寄場が設けられ、
石川氏は永田町に移転することになったのです。
そして、明治5年(1872)の町名改正で、佃島と合併したために「石川島」という住居表示はなくなってしまったのです。
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現在の佃1丁目、2丁目の東京のウォーターフロント再開発の先駆けとなった「大川端リバーシティー」は、石川氏の屋敷跡に建っています。
人足寄場だったところは、現在公園となって、人々の憩いの場となっています。
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隅田川の川沿いに桜並木があって、散策するのも楽しい場所です。
毎年お花見の一つとしても盛り上がりを見せています。
今では昔の面影は残っていませんが、約9ヘクタールにも及ぶという広大な敷地を利用して上手に建物を建てました。
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今では「東京のマンハッタン」とまで呼ばれています。
再開発地区の中でも人々が安らげる空間にしたのは、東京都心部では画期的なこととして今でも高く評価されているといいます。
敷地内にある石川島資料館で、往時の様子を知ることができます。
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